巻頭言 主のご復活おめでとうございます 

小教区管理者 アウグスティヌス 水上健次神父

この復活祭後に逗子教会と三浦海岸教会に異動になります。昨年司祭叙階直後に保土ヶ谷教会に着任したのが、つい昨日のような感覚です。短くも、内容の濃かった一年間であったことは間違い有りません。当たり前ですが神父は叙階後に神父になります。ミサ聖祭、結婚式やご葬儀、納骨式など、何をするにも初めてです。信徒の皆さんにはその度に助けて頂き、本当に感謝しております。神学生時代も祈りは毎日欠かさず行なってきましたが、司祭になった今ほど、聖霊に助けを求めている時は有りません。そして聖霊は必ず来て助けてくださいます。そのことを実感した一年であったと振り返って思っております。
保土ヶ谷教会では小教区管理者という職責でしたので、組織改革などは行いませんでしたが、着任に当たり、信徒の皆さんには3つのことをお願いしました。一つは、奉仕は喜びの中で行うこと。二つ目は、どんな会議も一時間以内に終わらせること。最後にミサを全ての頂点にすること。この三つをお願いし、皆さんには本当によく協力していただいたこと、感謝致します。
神父は役務的祭司職と呼ばれます。ミサの挙行、秘跡の実行など、個別の職務が与えられており、ミサの次に大切にしていたのが、病者訪問でした。身体の具合など様々な理由で教会に来られない方にお会いするのが、毎月とても楽しみで、それも喜んでくださるのが嬉しくて、神父になって本当に良かったと思うひと時でした。ご聖体をいただくこと。キリストと一つになることが、こんなにも大切なことなのだと、お会いする皆さんに教えていただいたこと、感謝しかありません。これからも共に主の道を歩んで行きましょう。
保土ヶ谷教会という場所を借りて行う子供食堂の立ち上げも、とても良い経験になりました。スタッフの皆さんの熱意が毎回伝わって来て、ああ今ここに神様がいるなと、いつも感じていました。その仲間に入れていただいたこと、嬉しく思っています。子共達の笑顔と共に、地域の皆さんとの交流という意味でも継続できるようにお祈りしています。
復活祭は全世界でお祝いをする日です。でも春は同時にお別れの季節でもあります。最初の赴任地が保土ヶ谷教会で本当に良かったです。いつも優しくしてくださって感謝です。逗子教会にも来てください。ビーチサンダルを忘れずに。お世話になりました。ありがとうございます。
主イエスよ、来てください。(黙示録22.20)

2023年4月18日 | カテゴリー : メッセージ, 説教 | 投稿者 : 保土ヶ谷カトリック教会広報委員

今日、あなたがたのために、救い主が生まれた

小教区管理者 アウグスティヌス 水上健次神父

主のご降誕おめでとうございます。クリスマスは世界で一番有名な誰でも知っているイエス・キリストの誕生日です。普段、無宗教を自認する日本人でさえも、クリスマスを迎える待降節になると気持ちがたかぶってきます。街ではボーナスを当て込んだクリスマス商戦が活発になり、経済に活気が出てきます。日本中がお祝いモードに入り、街ゆく人々も明るく笑顔になってくるように感じます。皆さんはどのようにクリスマスを迎え、お祝いをしますか。教会で主の降誕ミサに参列し、共に喜び祝い、家族や友人とご馳走やケーキを食べたり、お互いにプレゼントを交換しあったり、また、普段会えない方から頂いたクリスマスカードを読んだりしてお祝いする方が多いことと思います。争いのある所でさえ、クリスマス休戦協定が引かれ、全世界がキリストの誕生を喜び祝う日、それがクリスマスです。

二千年前、神の子としてお生まれになったイエスは、誰よりも小さい者としてこの世に生を受けられました。イエスは私たち人間の救いのために、罪が無いのに死ぬことが定められていました。そして、罪が無いのにも関わらず、ヨルダン川で洗礼者ヨハネより洗礼を受けられました。それは誰よりもへりくだり、小さな者として生まれ、私たちのために死んでくださる方だからです。また、イエスは全ての人を救うために生まれて来こられる神なのに、それにふさわしい場所が煌(きら)びやかな王宮ではなく、ベツレヘムというダビデの町で、宿を取ることも出来なかったヨセフとマリアによって、粗末な馬小屋の飼葉桶の中で、星明りに照らされながら、ひっそり静かにお生まれになるのです。こんなにも
小さく幼い乳飲み子こそが、私たちが待ち望んでいたメシアなのです。

マリアの子イエスという一人の人間が、神であるということを私たちは信じています。それは全能、永遠の神が人間になられたということです。自分を無にし、与え尽くして死んで行くイエスの生涯において、ご自身を表す神、それは偉大な神です。神ご自身が無限の神でありながら、同時にご自分の被造物になられるという意味は、どれだけ私たち人間を愛しておられるのかということに他なりません。私たちを無条件に愛して下さる神、愛するひとり子を世に送られた神の計り知れない大きさに、私たちには、ただただ感謝しか有りません。

誕生日は幾つになっても嬉しいものです。今年も一つ歳を重ねることが出来ることを両親に感謝する日です。私たちの主イエス・キリストの誕生日は、いつの時代も全世界の人達はイエスがこの世に生まれて来てくださったことを喜び、感謝をする日です。そして神の母聖マリアと聖ヨセフに感謝し、全ての人を救われるイエス・キリストを与えてくださった父である神に感謝をする日なのです。

堅信式 12/11 梅村司教様のお話から(一部分のみ)

2022年12月11日、堅信式がおこなわれました。8名の方が堅信の秘跡に与ることができました。

ミサの中で梅村司教様から譬え話で以下の気づきの話がありました。(以下は、一部分だけですが)

ある男の人の家の窓ガラスに、ある時渡り鳥が大量に飛んできて、次から次へとガラス窓にぶつかり、死んでゆくもの怪我をするものがたくさん出始めました。そこで、その男の人は、近くの窓を開放し、ぶつからないようにと、鳥たちを誘導しましたが、どうしても鳥たちは次から次へとガラス窓にぶつかり続けました。その時、その男の人は、あることに気が付きました。

まるで、神様の慈しみに気が付かない私たちにそっくりではないか、と。

神様が、愛をもって示された主への道に気が付かないで、躓き続ける私たちは、その渡り鳥と同じことをしている。その男の人は気がつきました。 (そのような詩を読んだことがあります、と言う文脈のなかでのお話しだったようでしたが、詳しいことはわかりません)

 

 

2022年12月12日 | カテゴリー : 新着情報, 説教 | 投稿者 : 保土ヶ谷カトリック教会 TA

恵みに満ちた方

8 月 15 日の聖母被昇天の祝日は全世界でお祝いをします。
日頃マリア様を大切にしている皆さんは、神の母聖マリアにどのような思いを抱いていますでしょうか。

聖母被昇天とはマリアの特権ではなく、第一人者、さきがけとしてキリスト者全体の繋がりを意味しており、無原罪ということ、それは罪が無いということよりも、恵みに満たされた方であるとの意味合いが込められていること、罪とは神から離れている状態のことであり、その逆であるマリアは恵みに満ち溢れていることを心に留めておきましょう。

カトリック教会のカテキズムでは、罪の無いキリストが生まれるためには、罪の無いマリアから生まれる必要があると説明しています(492 番)。また、聖イレネオは「マリアは従順によって、エバの不従順のもつれが解かれ、エバの不信仰によって縛ったものを、マリアが信仰によって解かれます。マリアとエバは対比され、生ける者の母と呼ばれ、エバによって死が、マリアによっていのちがもたらされた」と語っています。

使徒的勧告『福音の喜び』の中で教皇フランシスコは「粗末な布とあふれるほどの優しさをもって、動物の岩屋をイエスの家へと変えることができるかたです。賛美のうちに喜びに打ち震える、御父のはしためです。わたしたちの生活に葡萄酒が足りなくなることのないよう、つねに気を配る友です。心を剣で刺し貫かれたかた、あらゆる苦しみを理解されるかた」(286 番)であると、マリアをたたえています。

神学院では叙階が近づくと「マリア論」の講義を受けます。カトリックにおけるマリアの教えとしては、第二バチカン公会議教会憲章のマリアに関する第 8 章「キリストと教会の神秘の中の神の母、聖なる処女(おとめ)マリアについて」を理解することに尽きますが、マリア論の講師であった幸田司教様は、最後の講義の中で「『マリアは私たちと一番近いところで祈ってくれている。天に昇って、神と一番近いところで祈ってくれている』ということをこれからの信仰生活の中で大切にしてください。」と強調されました。いつも神への取り次ぎを願うマリアへの感謝の気持ちを忘れないでいたいものです。

恵みに満ちた方

小教区管理者 アウグスティヌス 水上健次神父

復活節第4主日(4月25日)の説教(テキスト)

今日読まれた福音(ヨハネ10-11)にはとても大切なイエスの思いがあります。

「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」とイエスはおっしゃいました。

さてこの「羊」ですが、正直なところ私たちにはあまりなじみがない動物です。私はインド南部ケララ州出身ですが、羊はインドでは北部にいるだけで南部にはいませんでした。その後フィリピンの教会に10年おりましたが、そこでも羊はいませんでした。恐らく暑いところは苦手な動物ではないのでしょうか。羊は強力な牙や歯はもっておらず強いという訳ではありませんが、その強さとして羊飼いの声をよく聞き分けて、それ以外については警戒する、ということがあります。

この羊と同じように、私たちはイエスの声を聴き分ける力を持っています。この力はすでに神様から与えられていて、今日読まれた福音はそれを示しています。「私は良い羊飼い、羊も私を知っている」これは、イエスが父を知っている、つまり御父と御子の関係と一緒であり、深い絆により結ばれていることを意味します。羊である私たち信者は羊飼いイエスと強くつながっているとハッキリ言っているのです。

信仰生活を歩んでいるうちに、信仰に迷いを感じたり、信じることができなくなることがあります。今のコロナ禍のなかで、不当と思われるような試練に直面する時などは、特にそうです。しかしイエスは今日ハッキリと「父が私を知っておられ私が父を知っているように、私はあなたを知っている」と言っておられるのです。私たちが信頼をもって祈るとき、絶対的に保証されている「心の耳」を私たちは与えられているのです。

イエスの声に耳を傾けるという選択をしさえすれば良いのです。私たちの日常には、この声あの声など様々な雑音に満ちていますが、イエスの声に耳を傾け毎日の生活の中にそれを育んでいくのであれば、私たちの心の中に平安が生まれます。神の語りかけを心の中に育むことができるのです。

実際のところ、羊も羊飼いの声を聴き分けられるようになるためには、羊飼いと一緒に長い時間過ごさなければなりません。私たちもそのように毎日の生活の中でイエスの言葉に耳を傾けるように致しましょう。

 

 

2021年4月25日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

復活の主日(4月4日)の説教(テキスト)

皆さん、イエスのご復活おめでとうございます。

イエスが葬られたお墓が空になったということは、イエスが私たちの心の中に住んでおられて必要な時に現れてくださるということを意味します。

イエスが亡くなった後、イエスを深く愛していたある女性は泣き伏していました。イエスの死により彼女は夜の暗闇の中に一人放り出されたような気持ちになりました。死がすべてを打ち負かしてしまったという思いのまま、彼女はまだ朝の暗いうちから外へ出て、イエスが埋葬された墓へ様子を見に行きました。まだイエスの死を受け入れられなかったのです。しかし彼女が墓に到着すると、墓は空いていて中には何もなかったのです。そのことに驚いた女性、マグダラのマリア、は急いで戻り、弟子たちに「主が取り去られた」と告げたのです。

このマリアが朝早くから墓を見に行ったことに注目してみましょう。マリアはすべての女性の象徴です。イエスが現世に来られた使命のなかで、女性たちの役割はいつも特別なものがありました。聖母マリアをはじめイエスを取り巻く多くの女性たちの特徴は忠実であったということです。これは男性の弟子たちが、あのペトロですらも、意思が弱くイエスを裏切ってしまったことと対照的です。

聖母マリアやマグダラのマリアなど他の女性たちは、イエスが十字架につけられ殺され、墓に埋葬されるまで、決して見捨てませんでした。実際に人類の歴史をみるとこのように女性の方が忠実でした。マグダラのマリアは空っぽのイエスの墓を見て、イエスが復活すると言っていたことを思い出し、復活を現実のこととして実感したのです。空の墓は復活の証であり、奇跡です。マグダラのマリア、イエスを愛しその死を受け入れることができず、朝早く墓の様子を見に来たマグダラのマリアが、この復活の最初の目撃するという恵みをいただいたのです。

人生の中で空虚な気持ちになった時、苦しみの中に放り込まれた時、皆様はどうなさいますか? マグダラのマリアのようにイエスを探し求めますか? 人生の中で、悪い方向に向き始め希望を失いかけた時、それはイエスが皆さまの中にいて神様が現存する証であると思います。

皆様が希望をなくした時、そこには希望はあります。

チャンスがないと感じた時、そこにはチャンスがあります。

不安に思っている時、そこには癒しがあります。

見捨てられていると思った時、そこには愛情をもって抱きしめてくれる誰かがいます。

今のコロナの状態を含めて、私たちが苦しんでいる今、今日の復活の日は希望の日です。

皆様が人生の道を見失ってしまった時は、そこには皆様が進むべき新しい希望の道があります。すべては主が死から復活されたからです。死から復活することで暗闇に打ち勝ち、私たちに新たな人生を与えてくれます。イエスのご復活を心に保ち続けましょう。お墓が空だったように、ここに私たちの胸に、イエスがおられます。このご復活のロウソクはその印です。

 

2021年4月5日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

受難の主日(3月28日)の説教(テキスト)

今日はイエスのエルサレム入城(マルコ11-1~10)と受難(マルコ15-1~39)という二つの圧倒的なシーンが聖書朗読で読まれました。

ホザンナの声も高らかに、大きな喜びのうちにイエスのエルサレム入城を迎えた人々は、そのわずか6日後には、イエスを十字架にかけろと叫ぶようになるのです。イエスに付き従ってエルサレムに入った弟子たちは人々の態度の豹変に恐れを感じたに違いありません。このイエスの入城から十字架上の死まで、弟子たちが経験したことは、弟子だけが経験したことではありません。世の人々の心は残酷なまでに移ろいやすく、その中で惑う人間の運命の過酷さは、まさに人間世界の特徴ではないでしょうか。神でありながらまさに人間と同じように生きるべく、イエスも人々に見捨てられ、苦悶のうちに死ぬ人生を選んでくださったのです。

このような迫害はあの時代だけではありません。つい先日、3月19日にも、インド中部のカルガ州というところで4人のシスターが地元のインド人に、キリスト教のシスターであるという理由だけで迫害を受けたというニュースがありました。今の時代にも信仰に対する迫害や困難は形を変えて続いています。イエスの捕縛後、弟子たちはイエスを見捨てて逃げました。彼らの信仰は足りませんでしたが、誰がそれを責めることができるでしょうか。私たちの信仰も、弱いものです。

しかし復活の朝、捕まらないように閉じこもって逃げていた弟子たちの前に、よみがえったイエスは姿をあらわします。そして、「あなたがたに平和」と言うだけで、彼らの信仰のふがいなさを決して非難したりはしませんでした。それは、まわりの状況にかかわりなく信仰を貫くことがいかに難しいか、イエスはよくわかっていたからです。イエスご自身の、ゲッセマニでの苦渋に満ちた祈りや、十字架上の「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びなどがそれを表しています。

イエスのエルサレム入城と十字架上の死によってあらわにされた、人の心と人の世界の移ろいやすさを超えて、神のみ旨によって与えられた自分の生き方を貫いていける、イエスに従う者たちの生き方があります。そのような生き方を支えきる信仰を、十字架の死に打ち勝って復活された主が私たちの中にふりいれてくださるのです。そのような信仰の恵みを願って、主イエスの死と復活の過越しの記念を祝うこの聖週間に、ともに祈り求めていきたいと思います。

2021年3月28日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第5主日(3月21日)の説教(テキスト)

ラジュ・アントニー神父様(戸部教会)の御説教

四旬節も第5主日を迎えています。来週には受難の主日と呼ばれる枝の主日です。

そして過ぎ越しの聖なる3日間の典礼を通して、私たちは復活祭を迎えようとしています。

今日読まれた福音では、「私が地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」というイエスの言葉が記されています。

この言葉は先週読まれた福音の言葉「モーセが蛇をあげられたように、人の子も上げられなけらばならない」と共鳴しています。

イエスが上げられる目的は、「信じる者が人の子によって永遠の命を得るためである」と言われたこととあわせて考えると、これは十字架にあげられたイエスからの私たちへの招きの言葉であると思います。

イエスは十字架上の死の意味を私たちが理解することを望んでいます。十字架にあげられたイエスは、私たちに「これを見よ」と言っています。そして私たちの救いを思い起こさせ、私たちに問いかけています。なぜイエスがあのような苦しみの姿をさらさねばならなかったのか、何がイエスを十字架に上げたのか、と。

イエスを十字架上に上げたものは、私たちに死をもたらすもの、罪であり、わたしたちが罪のすべてを見つめるよう十字架にあがったのです。イスラエルの人だけでなく、今生きる私たちの救いのために、私たちの罪の赦しのために、十字架にあがったのです。

さて、今日読まれた福音のはじめの部分に、素直にイエスと出会うために招き入れたギリシア人たちが出てきます。これらのギリシア人に対してイエスは「人の子が栄光受ける時が来た」と言っています。

このギリシア人は、最初に引き寄せられた異邦人の代表でした。救いはユダヤ人だけでなく、インドや日本などを含めた、すべての人々に与えられることを意味しています。その招きに応えて、私たちも日々私たちの十字架を持って、イエスの道を歩まねばなりません。その十字架の上には神によって与えられる栄光の姿が宿ります。すべての困難に打ち勝つ神の栄光のうちに示される助けを、今日も共に祈り、求めたいと思います。

 

 

 

2021年3月22日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第4主日(3月14日)の説教(テキスト)

ラジュ・アントニー神父様(戸部教会)の御説教

 

神は「ひとり子」をお与えになったほど、この世を愛された

モーセが荒れ野で蛇をあげられたように、「神のひとり子」の意味は何でしょうか。

この意味を理解するために、2月に戸部教会でおこなわれた黙想会にて、サレジオ会のコンブリ神父様が話されたことをご紹介します。彼はヨハネ福音書をから「言葉は肉となって私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。私たちはその栄光を見た。」を引用しました。イエス・キリストは神の人間への愛を表明する言葉として、肉体となってこの世に現れた「神のひとり子」と言ったのです。

神はそのひとり子をお与えになったほど、人間を愛してくださいました。今日読まれた福音のはじめでは、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子もあげられなければならない」とありました。これは旧約(民数記21章)でモーセが荒れ野で毒蛇に苦しむ民を救った故事に基づいています。モーセは青銅で蛇の像を作り高く掲げると、噛まれて苦しむ人々はそれを仰ぎ見るだけで回復したのです。イエス自身も十字架上にあげられなければならない、そのために神ご自身が愛するひとり子をこの世に送って下さったのです。それほど、神は私たち人間を愛して下さり、イエスご自身の死によりそれは全うされたのです。

今日、洗礼志願式に臨まれる方々、そして私たちキリストを信じる者すべては、この十字架上のイエスを仰ぎ見て、信じるのです。そしてイエスの死によってもたらされた、神のひとり子の永遠の命をいただくことができるのです。

間もなく聖週間が始まりますが、このような私たちの信仰がより私たちの中に浸透していきますように。

2021年3月16日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第3主日(3月7日)の説教(テキスト)

先週に引き続き、旧約聖書を今もう一度見直し、現代の私たちへの神からのメッセージを探っていきたいと思います。

四旬節に入ってからは、自然災害から私たちを救う神(ノアの箱舟の故事)や、人ひとりの命の尊厳を守る神(アブラハムの息子イサクの生贄を止める故事)の姿が話されてきました。

今日の第一朗読では、モーゼが神の前に立って、立法を受け入れたシーンが描かれています。モーゼが率いるユダヤの民はこの律法を受け入れ、困難を乗り越えながら、神の民として生きてきました。

神はヘブライ人たちをエジプトでの奴隷状態から解放させ、そしてその後一人ひとりが自分のてで立ち上がれるよう、砂漠での40年間の体験が与えられました。その体験とは、「神と自分」および「自分と他者・自然」が共に生きるための基本法を学ぶということでした。それを神から学ぶことにより、神と結ばれることができるという契約でした。この契約の基本は、一人ひとりが、それまで囚われていたもの、端的には自己中心的な弱肉強食から解放されるということです。今日読まれた旧約聖書(出エジプト20・1~17)のとおり、10の掟がシナイ山にて示されました。問題はユダヤ人たちはそれを実生活に当てはめるよう解釈を続け、613もの細かい律法ができあがってしまい、細かい律法を守ることが何よりも重要とされてしまったことです。この結果、神殿の前では、このような人間が作った613の律法に適合すべく、正しい貨幣に交換する両替商、正しい生贄を売りつける業者がひしめき、商人や神官たちが、貧しい敬虔な信徒からお金を巻き上げていました。今日読まれた福音(ヨハネ2-13)では、イエス・キリストはこのような状況に憤慨した光景が描かれています。

イエス・キリストは論争をしながら、表面的な律法遵守に堕した信仰を正し、使徒行録2-42に次のように示されているような信仰共同体の中で生きることを求めています。

  1. 使徒の教え
  2. 共同生活の支えあい
  3. パンの分かち合い
  4. 祈り

このイエスの教えを受けて、ヨーロッパの政治・経済状況から、7世紀までエジプトからシリアまでの砂漠地帯で隠遁生活をしていた初期キリスト教の教父達は、Lectio Divinaという方法でキリスト教の活力を生かしていました。その方法とは、Lectio (読むこと)、Meditatio (瞑想すること)、Oratio (祈ること)、Contemplatio (熟考すること)からなっていました。これらの教父たちの教え、例えば四旬節第一主日にお話ししたような、「人間とは、物理的な存在を維持する“肉体”、感情を司る“魂”、そして人間以外のなにかと繋ぐ“霊”からなる」といった考えは、19,20世紀の心理学や精神医学など人間科学研究を先取りした部分が多々あるのです。

神から与えられる「解放」を理解し知る、そのためにもこの四旬節の中で、偽善や人を見下した憐れみではなく、私たちがどんな他者でも同じ人間として連帯し尊重できているか、今一度見つめ直しましょう。

2021年3月7日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者