復活節第4主日(4月25日)の説教(テキスト)

今日読まれた福音(ヨハネ10-11)にはとても大切なイエスの思いがあります。

「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」とイエスはおっしゃいました。

さてこの「羊」ですが、正直なところ私たちにはあまりなじみがない動物です。私はインド南部ケララ州出身ですが、羊はインドでは北部にいるだけで南部にはいませんでした。その後フィリピンの教会に10年おりましたが、そこでも羊はいませんでした。恐らく暑いところは苦手な動物ではないのでしょうか。羊は強力な牙や歯はもっておらず強いという訳ではありませんが、その強さとして羊飼いの声をよく聞き分けて、それ以外については警戒する、ということがあります。

この羊と同じように、私たちはイエスの声を聴き分ける力を持っています。この力はすでに神様から与えられていて、今日読まれた福音はそれを示しています。「私は良い羊飼い、羊も私を知っている」これは、イエスが父を知っている、つまり御父と御子の関係と一緒であり、深い絆により結ばれていることを意味します。羊である私たち信者は羊飼いイエスと強くつながっているとハッキリ言っているのです。

信仰生活を歩んでいるうちに、信仰に迷いを感じたり、信じることができなくなることがあります。今のコロナ禍のなかで、不当と思われるような試練に直面する時などは、特にそうです。しかしイエスは今日ハッキリと「父が私を知っておられ私が父を知っているように、私はあなたを知っている」と言っておられるのです。私たちが信頼をもって祈るとき、絶対的に保証されている「心の耳」を私たちは与えられているのです。

イエスの声に耳を傾けるという選択をしさえすれば良いのです。私たちの日常には、この声あの声など様々な雑音に満ちていますが、イエスの声に耳を傾け毎日の生活の中にそれを育んでいくのであれば、私たちの心の中に平安が生まれます。神の語りかけを心の中に育むことができるのです。

実際のところ、羊も羊飼いの声を聴き分けられるようになるためには、羊飼いと一緒に長い時間過ごさなければなりません。私たちもそのように毎日の生活の中でイエスの言葉に耳を傾けるように致しましょう。

 

 

2021年4月25日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

復活の主日(4月4日)の説教(テキスト)

皆さん、イエスのご復活おめでとうございます。

イエスが葬られたお墓が空になったということは、イエスが私たちの心の中に住んでおられて必要な時に現れてくださるということを意味します。

イエスが亡くなった後、イエスを深く愛していたある女性は泣き伏していました。イエスの死により彼女は夜の暗闇の中に一人放り出されたような気持ちになりました。死がすべてを打ち負かしてしまったという思いのまま、彼女はまだ朝の暗いうちから外へ出て、イエスが埋葬された墓へ様子を見に行きました。まだイエスの死を受け入れられなかったのです。しかし彼女が墓に到着すると、墓は空いていて中には何もなかったのです。そのことに驚いた女性、マグダラのマリア、は急いで戻り、弟子たちに「主が取り去られた」と告げたのです。

このマリアが朝早くから墓を見に行ったことに注目してみましょう。マリアはすべての女性の象徴です。イエスが現世に来られた使命のなかで、女性たちの役割はいつも特別なものがありました。聖母マリアをはじめイエスを取り巻く多くの女性たちの特徴は忠実であったということです。これは男性の弟子たちが、あのペトロですらも、意思が弱くイエスを裏切ってしまったことと対照的です。

聖母マリアやマグダラのマリアなど他の女性たちは、イエスが十字架につけられ殺され、墓に埋葬されるまで、決して見捨てませんでした。実際に人類の歴史をみるとこのように女性の方が忠実でした。マグダラのマリアは空っぽのイエスの墓を見て、イエスが復活すると言っていたことを思い出し、復活を現実のこととして実感したのです。空の墓は復活の証であり、奇跡です。マグダラのマリア、イエスを愛しその死を受け入れることができず、朝早く墓の様子を見に来たマグダラのマリアが、この復活の最初の目撃するという恵みをいただいたのです。

人生の中で空虚な気持ちになった時、苦しみの中に放り込まれた時、皆様はどうなさいますか? マグダラのマリアのようにイエスを探し求めますか? 人生の中で、悪い方向に向き始め希望を失いかけた時、それはイエスが皆さまの中にいて神様が現存する証であると思います。

皆様が希望をなくした時、そこには希望はあります。

チャンスがないと感じた時、そこにはチャンスがあります。

不安に思っている時、そこには癒しがあります。

見捨てられていると思った時、そこには愛情をもって抱きしめてくれる誰かがいます。

今のコロナの状態を含めて、私たちが苦しんでいる今、今日の復活の日は希望の日です。

皆様が人生の道を見失ってしまった時は、そこには皆様が進むべき新しい希望の道があります。すべては主が死から復活されたからです。死から復活することで暗闇に打ち勝ち、私たちに新たな人生を与えてくれます。イエスのご復活を心に保ち続けましょう。お墓が空だったように、ここに私たちの胸に、イエスがおられます。このご復活のロウソクはその印です。

 

2021年4月5日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

受難の主日(3月28日)の説教(テキスト)

今日はイエスのエルサレム入城(マルコ11-1~10)と受難(マルコ15-1~39)という二つの圧倒的なシーンが聖書朗読で読まれました。

ホザンナの声も高らかに、大きな喜びのうちにイエスのエルサレム入城を迎えた人々は、そのわずか6日後には、イエスを十字架にかけろと叫ぶようになるのです。イエスに付き従ってエルサレムに入った弟子たちは人々の態度の豹変に恐れを感じたに違いありません。このイエスの入城から十字架上の死まで、弟子たちが経験したことは、弟子だけが経験したことではありません。世の人々の心は残酷なまでに移ろいやすく、その中で惑う人間の運命の過酷さは、まさに人間世界の特徴ではないでしょうか。神でありながらまさに人間と同じように生きるべく、イエスも人々に見捨てられ、苦悶のうちに死ぬ人生を選んでくださったのです。

このような迫害はあの時代だけではありません。つい先日、3月19日にも、インド中部のカルガ州というところで4人のシスターが地元のインド人に、キリスト教のシスターであるという理由だけで迫害を受けたというニュースがありました。今の時代にも信仰に対する迫害や困難は形を変えて続いています。イエスの捕縛後、弟子たちはイエスを見捨てて逃げました。彼らの信仰は足りませんでしたが、誰がそれを責めることができるでしょうか。私たちの信仰も、弱いものです。

しかし復活の朝、捕まらないように閉じこもって逃げていた弟子たちの前に、よみがえったイエスは姿をあらわします。そして、「あなたがたに平和」と言うだけで、彼らの信仰のふがいなさを決して非難したりはしませんでした。それは、まわりの状況にかかわりなく信仰を貫くことがいかに難しいか、イエスはよくわかっていたからです。イエスご自身の、ゲッセマニでの苦渋に満ちた祈りや、十字架上の「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びなどがそれを表しています。

イエスのエルサレム入城と十字架上の死によってあらわにされた、人の心と人の世界の移ろいやすさを超えて、神のみ旨によって与えられた自分の生き方を貫いていける、イエスに従う者たちの生き方があります。そのような生き方を支えきる信仰を、十字架の死に打ち勝って復活された主が私たちの中にふりいれてくださるのです。そのような信仰の恵みを願って、主イエスの死と復活の過越しの記念を祝うこの聖週間に、ともに祈り求めていきたいと思います。

2021年3月28日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第5主日(3月21日)の説教(テキスト)

ラジュ・アントニー神父様(戸部教会)の御説教

四旬節も第5主日を迎えています。来週には受難の主日と呼ばれる枝の主日です。

そして過ぎ越しの聖なる3日間の典礼を通して、私たちは復活祭を迎えようとしています。

今日読まれた福音では、「私が地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」というイエスの言葉が記されています。

この言葉は先週読まれた福音の言葉「モーセが蛇をあげられたように、人の子も上げられなけらばならない」と共鳴しています。

イエスが上げられる目的は、「信じる者が人の子によって永遠の命を得るためである」と言われたこととあわせて考えると、これは十字架にあげられたイエスからの私たちへの招きの言葉であると思います。

イエスは十字架上の死の意味を私たちが理解することを望んでいます。十字架にあげられたイエスは、私たちに「これを見よ」と言っています。そして私たちの救いを思い起こさせ、私たちに問いかけています。なぜイエスがあのような苦しみの姿をさらさねばならなかったのか、何がイエスを十字架に上げたのか、と。

イエスを十字架上に上げたものは、私たちに死をもたらすもの、罪であり、わたしたちが罪のすべてを見つめるよう十字架にあがったのです。イスラエルの人だけでなく、今生きる私たちの救いのために、私たちの罪の赦しのために、十字架にあがったのです。

さて、今日読まれた福音のはじめの部分に、素直にイエスと出会うために招き入れたギリシア人たちが出てきます。これらのギリシア人に対してイエスは「人の子が栄光受ける時が来た」と言っています。

このギリシア人は、最初に引き寄せられた異邦人の代表でした。救いはユダヤ人だけでなく、インドや日本などを含めた、すべての人々に与えられることを意味しています。その招きに応えて、私たちも日々私たちの十字架を持って、イエスの道を歩まねばなりません。その十字架の上には神によって与えられる栄光の姿が宿ります。すべての困難に打ち勝つ神の栄光のうちに示される助けを、今日も共に祈り、求めたいと思います。

 

 

 

2021年3月22日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第4主日(3月14日)の説教(テキスト)

ラジュ・アントニー神父様(戸部教会)の御説教

 

神は「ひとり子」をお与えになったほど、この世を愛された

モーセが荒れ野で蛇をあげられたように、「神のひとり子」の意味は何でしょうか。

この意味を理解するために、2月に戸部教会でおこなわれた黙想会にて、サレジオ会のコンブリ神父様が話されたことをご紹介します。彼はヨハネ福音書をから「言葉は肉となって私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。私たちはその栄光を見た。」を引用しました。イエス・キリストは神の人間への愛を表明する言葉として、肉体となってこの世に現れた「神のひとり子」と言ったのです。

神はそのひとり子をお与えになったほど、人間を愛してくださいました。今日読まれた福音のはじめでは、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子もあげられなければならない」とありました。これは旧約(民数記21章)でモーセが荒れ野で毒蛇に苦しむ民を救った故事に基づいています。モーセは青銅で蛇の像を作り高く掲げると、噛まれて苦しむ人々はそれを仰ぎ見るだけで回復したのです。イエス自身も十字架上にあげられなければならない、そのために神ご自身が愛するひとり子をこの世に送って下さったのです。それほど、神は私たち人間を愛して下さり、イエスご自身の死によりそれは全うされたのです。

今日、洗礼志願式に臨まれる方々、そして私たちキリストを信じる者すべては、この十字架上のイエスを仰ぎ見て、信じるのです。そしてイエスの死によってもたらされた、神のひとり子の永遠の命をいただくことができるのです。

間もなく聖週間が始まりますが、このような私たちの信仰がより私たちの中に浸透していきますように。

2021年3月16日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第3主日(3月7日)の説教(テキスト)

先週に引き続き、旧約聖書を今もう一度見直し、現代の私たちへの神からのメッセージを探っていきたいと思います。

四旬節に入ってからは、自然災害から私たちを救う神(ノアの箱舟の故事)や、人ひとりの命の尊厳を守る神(アブラハムの息子イサクの生贄を止める故事)の姿が話されてきました。

今日の第一朗読では、モーゼが神の前に立って、立法を受け入れたシーンが描かれています。モーゼが率いるユダヤの民はこの律法を受け入れ、困難を乗り越えながら、神の民として生きてきました。

神はヘブライ人たちをエジプトでの奴隷状態から解放させ、そしてその後一人ひとりが自分のてで立ち上がれるよう、砂漠での40年間の体験が与えられました。その体験とは、「神と自分」および「自分と他者・自然」が共に生きるための基本法を学ぶということでした。それを神から学ぶことにより、神と結ばれることができるという契約でした。この契約の基本は、一人ひとりが、それまで囚われていたもの、端的には自己中心的な弱肉強食から解放されるということです。今日読まれた旧約聖書(出エジプト20・1~17)のとおり、10の掟がシナイ山にて示されました。問題はユダヤ人たちはそれを実生活に当てはめるよう解釈を続け、613もの細かい律法ができあがってしまい、細かい律法を守ることが何よりも重要とされてしまったことです。この結果、神殿の前では、このような人間が作った613の律法に適合すべく、正しい貨幣に交換する両替商、正しい生贄を売りつける業者がひしめき、商人や神官たちが、貧しい敬虔な信徒からお金を巻き上げていました。今日読まれた福音(ヨハネ2-13)では、イエス・キリストはこのような状況に憤慨した光景が描かれています。

イエス・キリストは論争をしながら、表面的な律法遵守に堕した信仰を正し、使徒行録2-42に次のように示されているような信仰共同体の中で生きることを求めています。

  1. 使徒の教え
  2. 共同生活の支えあい
  3. パンの分かち合い
  4. 祈り

このイエスの教えを受けて、ヨーロッパの政治・経済状況から、7世紀までエジプトからシリアまでの砂漠地帯で隠遁生活をしていた初期キリスト教の教父達は、Lectio Divinaという方法でキリスト教の活力を生かしていました。その方法とは、Lectio (読むこと)、Meditatio (瞑想すること)、Oratio (祈ること)、Contemplatio (熟考すること)からなっていました。これらの教父たちの教え、例えば四旬節第一主日にお話ししたような、「人間とは、物理的な存在を維持する“肉体”、感情を司る“魂”、そして人間以外のなにかと繋ぐ“霊”からなる」といった考えは、19,20世紀の心理学や精神医学など人間科学研究を先取りした部分が多々あるのです。

神から与えられる「解放」を理解し知る、そのためにもこの四旬節の中で、偽善や人を見下した憐れみではなく、私たちがどんな他者でも同じ人間として連帯し尊重できているか、今一度見つめ直しましょう。

2021年3月7日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第2主日(2月28日)の説教(テキスト)

ミサで読まれる福音と第一朗読(旧約聖書)はたいていマッチしています。

今日読まれたアブラハムの故事について、旧約聖書が単なる昔のお話としてではなく、現在につながるその意味を、理解してみたいと思います。

先週BSテレビでラッセル・クロウ主演の映画「ノア 約束の舟」が放映されました。旧約聖書に描かれているノアの箱舟の出来事についての現代的な解釈ですが、堕落した支配層と乱れた世の中にあって神がノアというしっかりした人を選び彼が被造物を選別して大洪水から彼らを救うという大筋は、旧約聖書のとおりでした。映画の中ではノアは自己中心的で頑固な権威主義者として描かれていましたが、これはこの映画独特の描写です。確かなことは、オリーブの枝をくわえた鳩が箱舟に舞い降りた時、それは彼らが助かったことであり、同時に神と人間の和解を象徴していることです。

神は人間に試練を与えますが、それは必ず人が再び立ち上がれるように助けてくださいます。

今日読まれた旧約聖書(創世記22-1~18)では、アブラハムが神より大事な一人息子を生贄に捧げるよう言われてしまいます。古代文明では、アステカやインカの文化でもあるように、人間を生贄にするというものがありました。アブラハムが生贄を捧げる直前にそれを止めましたが、これは私たちの神が私たちから何かが欲しい訳ではなく、私たちが自分の大事なものを他の人のために捧げる正義感を持って欲しいという希望を示しています。そして私たちが持っていると思っているものは必ず返すべきものであるので、自分だけの所有者としてふるまうのではなく分かち合うこと、自然環境を将来の子孫の代まで残すことを意味しています。

続いて読まれた福音書では、今も実際にあるタボル山という小さな山の山頂で、イエスが変容したことが語られています。

ペトロ、ヨハネ、ヤコブという3人の主要な弟子を伴ったイエスはこの山頂で、「白く輝き」はじめ、現れたエリアとモーセという、旧約聖書時代の預言者達と語り合い始めます。真っ白に輝くイエスは、神であるイエスの内面そのものを表し、イエスの十字架上の死と復活、神の勝利、神への信仰によって救われるなどのメッセージがそこには込められています。

この時、弟子たちにはまだその意味を完全には理解できてはいませんでしたが、光輝くイエスの姿を見て、イエスの内面を知りました。アブラハムも全てを捧げる直前まで行って、神の真実を知りました。

今、理不尽とも思えるコロナ禍に苦しむ私たちにとって、これらは何か示唆に富むものではないでしょうか。

アブラハムも3人の弟子たちも、最初は何もわかりませんでしたが、神に従った結果、より深く神の意図を理解できるようになったのです。

この四旬節の時期、よりよく私たちが何を神に願うのかよく考え、私たち同士の連帯を強め、神とつながりましょう。

 

2021年2月28日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第1主日(2月21日)の説教(テキスト)

今日は四旬節の最初の主日です。

四旬節のはじめに読まれる聖書の箇所はほぼ決まっており、第一主日はイエスが宣教を始める前に、霊に導かれて荒れ野で40日間修行を行ったことが書かれています。この時イエスは神の代理としての使命を確認しています。イエスは何を確認したのか、それが私たちにどのような意味を持つのか。

マルコによる福音書では詳しくは書かれていませんが、ルカやマタイによる福音書に書かれた内容も踏まえて、考えてみたいと思います。

引き続き私は今、5~6世紀に中東の砂漠地帯に隠棲していた初期キリスト教の教父達の著作を読んでおりますが、その中で次のような考え方が目を引きました。それはイエスがサタンから挑まれた三つの誘惑とは、人間が構成されている次の三つの要素に対応するものである、というものです。

① 肉体:他の被造物同様、物理的に存続するために栄養が必要です。パン、つまりは肉体を満足させるものは必ず必要なものですが、人間は必要以上に蓄積する人と、飢える人に分かれてしまいます。すなわち「パンの誘惑」にさらされ、そこに人間の本音が現れます。人は、真に分かち合うことができるか、という命題を常に問われています。

② 魂:人は誰でも人生において成功したいと思い、それは必要なことです。しかし激しい競争の中で、他人を無視したり踏み台にするなどして、自分だけが良ければ良いという生き方では、成功した人生とは思えない気持ちでこの世を去ることになるのです。生まれながら恵まれている人は、人を支配するためではなく、お互いに支えあうことによって霊性を高め、成長することができます。

➂ 霊:肉体と魂だけではなく、人には我々と神をつなぐ何かがあります。この霊の導きによって、人は悪魔との戦いに負けず、より人間らしく生きることができるのです。

食べ物に乏しく自然環境の荒れ野には、また恐ろしい野獣も居ました。そのような中でも、イエスが飢え死にすることも、野獣に襲われることもなかったことは、神に従えば自然の厳しい変化や、けだもののような人からも私たちは害を受けず安全に生きていけることを示しています。3年前に教皇フランシスコが「Laudate Si ラウダテ・シー」という書簡を通じて、自然と人間、人間同士の生き方について、霊的な戦いを続けるよう励まして下さっています。

今日の聖書の後半(マルコ1-15)に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉があります。これは、イエスが今、生きておられる神の言葉として、「この厳しい状況に置かれている私たちが、他者と自然界との連帯を学び、非人間的な扱いを受けている人々と破壊されている世界を守り立て直すため、神のしもべとして生きるイエスの模範に従って生きましょう」ということを意味しています。

さて、「そう言われても、今は新型コロナのせいで、しばらくの間、何もかも分からなくなってしまった。自分のことすらも。」と思われている方も多いと思います。わたくしは、この危機の時こそ、救いの手を差し伸べられているイエス・キリストの手を握るチャンスと思います。神の言葉に触れ祈ることにより霊性を高めましょう。私たちにとって、この四旬節の務めは大きな恵みです。教皇フランシスコは「祈る、神様とつながる、ということは大きな力になりますので、積極的に参加して下さい」とおっしゃっています。

イタリアに「サン・エジディオ」という平和と共生を考える団体があります。そのリーダーであるエンゾビアンキ氏は、「霊的な活躍を支えてくれる神の言葉は、普通の書物の言葉と全く違います。神の言葉は、人間に贈られる「生きるためのメッセージ」です。神を知り、イエス・キリストと出会うことができます。神の言葉は、生きている命の言葉であり、それ無しにキリストの命を受け入れることはできません」と言っています。

このことを踏まえて、今年の四旬節を上手に過ごすために、二つの提案があります。

1.イエス・キリストの言葉を聴きましょう。

以下の方法で心の門をあけて、聖書を読んでみましょう。

―教会(聖堂の門を開ける:心を静かにし、聖霊の助けを求める。

―口の門を開ける:聖書のみ言葉を声に出して読む。

―沈黙の門:目で言葉を静かに読む。

―好奇心の門:気に入る、心に残る箇所に注目する。

―ハートの門:敏感に感じ入る点について瞑想する。

2.沈黙のうちに祈りましょう。

―神を感じるには、心を静かに受け入れる場所と準備が必要です。

―日常生活の忙しさ、雑音や不要な情報、便利な機械や装置からしばし逃れ、自分自身に戻れる「荒れ野」のような環境を準備しましょう。

―身近にある家族、友人、職場の仲間などを思い起こし、また訪れる春の自然を感じ、すべての源である神と向かい合いましょう。

2021年2月21日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

年間第6主日(2月14日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書(マルコ1-40~45)はイエスが重い皮膚病の患者を癒す情景を描いています。

現在パンデミックにより苦しむ私たちにとって、この聖書の箇所、イエスと病者の出会いは何を意味するものなのか、考えてみたいと思います。欧州起源のことわざで「木を見て森を見ない」というものがありますが、このイエスのたとえ話の細部にこだわることなく、その全体の意味を知り、このパンデミックによる様々な不便の中にあっても私たちが一歩ずつ進歩できるようになりたいと思います。

この重い皮膚病、つまりハンセン氏病については、横須賀三笠教会の浜崎神父が、国の隔離・差別政策に対する訴訟支援などを行っています。イエスの時代、ライ病と言われたこの病気への差別はさらに激しく、それは社会的なものにとどまらず、宗教的なものでもありました。レビ記13章によれば、このような病状を持つものは、何か罪を犯した「けがれた者」とされてしまい、神殿参拝はおろか普通に人と接することも禁じられていました。そして病が完治しその事実を神官が認めない限り、社会へ戻ることは許されませんでした。

現代の日本社会ではこのような病者への宗教的な差別はありませんが、法律の外側で、病者が世間的な差別や支援の乏しさに苦しんでいる状況が依然としてあります。ですので、私たちは学ばなければなりません。

このたとえ話のポイントは、まず病者は自ら勇気をもってイエスに近づき、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったことです。宗教的・道徳的に汚れた状態にあっても、それから逃れたいと思う強い心を持っていたことに注目しましょう。そしてイエスは病者を「深く憐れんで」(ギリシア語では、はらわたがちぎれるほど強く心が痛んで)、手を差し伸べて病者に触れました。この病者と会うことはもちろん触ることもタブーだったのですが、よきサマリア人のたとえ話と同じように、それを簡単に乗り越えていったのです。

以前の説教で、キリスト者は言葉と行いが一致しなければならない、ということをお話ししましたが、ここでもイエスは言葉だけでなく、実際に触れるという行為をし、その結果病者は快癒しました。その前提として、病者自らが最初にタブーを破り、イエスに勇気をもって近づいて行ったことがあります。

このことから私たちは学ぶことは多いと思います。わたくしは、三点あると思います。

― 私たちは今ソーシャルディスタンスを図らざるを得ない状況に苦しんでいます。その中で少しでも人間らしく生きるようにするためには何をしたら良いか。コミュニケーションを減らしたり断ったりするのではなく、コロナをチャンスとしていままであった心の壁を取り除き、ソーシャルディスタンスを保ちつつ工夫して交流を深めるといったことが望まれるのです。

― また、私たちは福音に出てきた病者のような勇気を持っているでしょうか。社会参加をあきらめ、怒ったり悲しんだりしているだけではなく、勇気をもって社会の動きに関心を持ち続けましょう。

― 最後に、今一度キリストとのかかわりを見直してみましょう。祈りと聖書を読むことによりイエスと出会い、人を大切にすること、お互いに尊敬しあうことの大切さを今一度思い起こしましょう。そして今回のコロナ禍の中での試練を、ライ病病者とイエスの出会いのシーンをイメージしながら、この試練を乗り越え私たち自身がかえって強くなれるようにいたしましょう。

2021年2月14日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

年間第5主日(2月7日)の説教(テキスト)

もうすぐ四旬節がはじまり、そして復活祭という季節です。コロナにより昨年出来なかったことが、今年はできるでしょうか。

長い試練が、私たちをはじめ世界中の人たちに課せられています。

今日は、第一朗読で読まれた、神から与えられた試練に苦しみ抜いた義人ヨブを見て、人間と神のかかわり方を見てみましょう。ヨブ記に書かれていることは、パンデミックによって、何も悪いことをしていないのに、多くの人が苦しむ、現在の私たちと似ているところがあるからです。

ヨブ記そのものは、創作された作り話であることをご存じの方も多いと思います。ヨブという人物は存在しませんでした。しかし、人類にとってはヨブ記が書かれた3,000年前も、今も悪との戦いは、変わらない大きな課題です。

ヨブは、神を敬虔に敬う非の打ちどころのない高潔な人物で、社会的にも家族にも恵まれ、多くの人に尊敬されていました。その彼が、彼自身何も落ち度が無いのにもかかわらず、大きな不幸に見舞われます。財産も家族も失い、不治の病に倒れ、友人すらも去ってしまいます。神が不正義をするはずが無いので、このような大きな不幸に遭うのは、ヨブが何か誰も知らないところで大きな罪を犯したのではないかと友人に疑われ、妻にまで神を呪って死ぬ方がましと言われるのです。

ヨブは神に反抗する代わりに、「なぜ、罪のないものが、いつまでも苦しまなければならないのか」と問い続けます。ヨブ記では、神に向かって、問いかけを続けるヨブの姿が描かれています。

「神はなぜ答えてくれないのですか」

「神は耳が遠いのでしょうか」

「神は、不正を喜ぶ者なのでしょうか」

ヨブは自分が無罪であることを訴え続け、考え続けながら、ようやく次の3点に気が付くのです。

1 神は悪の原因でも、解決でもありません。

神自身も悪に苦しめられ、悪との戦いに力を入れるのです。ヨブも悪との戦いに神が擁護してくれることに気づきます。

2 神と対話を続けながら、神がすべてを無償で与えてくれることに、気が付きます。

3 全能といわれている神が、実に弱いものです。創造された世界は完璧なものではなく、完成するよう人間にお任せになりました。人間にも自由を与え、決断できるよう育ててきました。

神は一体何をお望みになるのでしょうか。それは、世界が法と正義の支配下にあるように望まれておられます。しかしそれは神が造られた世界の法則です。

ヨブはこれらに気がついたことにより、再び神に希望をおきます。そして葛藤を乗り越えて、愛する神を再び信頼するようになり、幸せを取り戻す、という内容です。

さて、ヨブとイエスの運命の間に大きな共通点があります。正しい人であるイエスが疑わられたり、排除されたり、最後には死刑を宣告される、といったような点です。イエスもゲッセマネの園で、苦しまれながら、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14-32)」とあるように、苦しみながらおん父を信頼し続けるよう努力しています。

フランスの作家であり駐日大使でもあった(1921-1927)ポール・クローデルは、「イエス・キリストは苦しみをなくすためではなく、私たちと共に苦しむためにこの世に来ました」と言っています。

私たちも世界中で苦しめられている人々と共に生き、悪と戦い、神に信頼を置きましょう。

2021年2月7日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者