今日はイエスのエルサレム入城(マルコ11-1~10)と受難(マルコ15-1~39)という二つの圧倒的なシーンが聖書朗読で読まれました。
ホザンナの声も高らかに、大きな喜びのうちにイエスのエルサレム入城を迎えた人々は、そのわずか6日後には、イエスを十字架にかけろと叫ぶようになるのです。イエスに付き従ってエルサレムに入った弟子たちは人々の態度の豹変に恐れを感じたに違いありません。このイエスの入城から十字架上の死まで、弟子たちが経験したことは、弟子だけが経験したことではありません。世の人々の心は残酷なまでに移ろいやすく、その中で惑う人間の運命の過酷さは、まさに人間世界の特徴ではないでしょうか。神でありながらまさに人間と同じように生きるべく、イエスも人々に見捨てられ、苦悶のうちに死ぬ人生を選んでくださったのです。
このような迫害はあの時代だけではありません。つい先日、3月19日にも、インド中部のカルガ州というところで4人のシスターが地元のインド人に、キリスト教のシスターであるという理由だけで迫害を受けたというニュースがありました。今の時代にも信仰に対する迫害や困難は形を変えて続いています。イエスの捕縛後、弟子たちはイエスを見捨てて逃げました。彼らの信仰は足りませんでしたが、誰がそれを責めることができるでしょうか。私たちの信仰も、弱いものです。
しかし復活の朝、捕まらないように閉じこもって逃げていた弟子たちの前に、よみがえったイエスは姿をあらわします。そして、「あなたがたに平和」と言うだけで、彼らの信仰のふがいなさを決して非難したりはしませんでした。それは、まわりの状況にかかわりなく信仰を貫くことがいかに難しいか、イエスはよくわかっていたからです。イエスご自身の、ゲッセマニでの苦渋に満ちた祈りや、十字架上の「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びなどがそれを表しています。
イエスのエルサレム入城と十字架上の死によってあらわにされた、人の心と人の世界の移ろいやすさを超えて、神のみ旨によって与えられた自分の生き方を貫いていける、イエスに従う者たちの生き方があります。そのような生き方を支えきる信仰を、十字架の死に打ち勝って復活された主が私たちの中にふりいれてくださるのです。そのような信仰の恵みを願って、主イエスの死と復活の過越しの記念を祝うこの聖週間に、ともに祈り求めていきたいと思います。