待降節第4主日(12月20日)の説教(テキスト)

皆さん、待降節最後の日曜日、クリスマスももうすぐです。

今日は、イエス様が宿られたマリア様の模範に学びながら、イエス様を迎える準備をしたいと思います。

今日の第一朗読で読まれた旧約聖書、サムエル記(サムエル下71)は、今から3千年前、長い間砂漠でさまよっていた神の民がイスラエルという約束の地に定着するようになった頃の話です。

その約束の地をめぐる異邦人との長い戦いに勝利したダビデ王は、レバノン杉でできた素晴らしい王宮に住めるようになりました。しかしダビデ王は、自分がこのような壮麗な建物に住んでいるにもかかわらず、我らの主がおられる契約の箱は、幕屋に安置されたままであることに不安を感じます。そこで、預言者を通して神殿を建てたいと神に相談したのです。ところが、預言者に下ったお告げは、そのようなものは不要であるということでした。

つまり、神とは、そのような狭い箱に入り壮大な大神殿の奥の院にあるようなものではなく、神はどこにでもいるもの、特に人の心の中に住むことを望んでおられる、ということだったのです。

確かに仲間と共に、神と祈りにより結びつくことができる、落ち着いた場所は必要でしょう。しかしそれを強調しすぎると、かえって神が人の普段の心から離れていきます。神は定住するよりも、ひとところに落ち着かず放浪生活が好きなのです。人間には感知できない、どこにでも、いつでもいる存在であり、人の心の中に宿るものであり、また、宿りたいと願っているものなのです。

このことを、今日の第二朗読(ローマ16-25)の中でパウロは別な角度から言っています。

神は大神殿の奥の院にあり神官に守られあがめられたりするものではない、と何度も何度も預言者を通して人間に伝えているのに、人間はそれを聞かずに神殿を建ててしまう。そこで、神ご自身であるイエス・キリストを世に送り、異邦人でも誰でも、日常生活の中で、人と人との交わりの中で、すべての人と神が出会うことができるようにする、というのが「神のご計画」であり、福音(神の良い知らせ)なのです。

この神のご計画では、神は人間の手で作られた壮麗な神殿ではなく、マリアというナザレの若い女性の胎内に宿ることになりました。今日読まれたルカ福音書(ルカ1-26-38)では、医者であったルカがマリアの受胎告知の情景を具体的に詳述しています。カトリックではガブリエル、ラファエル、ミカエルを三大天使といい、それぞれ「神の影響力」「神による癒し」「神の力」を伝える存在です。そのガブリエルが現れ、神のご計画をマリアに伝えたのです。

このルカ書で描写されるマリアの姿は、感情をあらわにはしませんが、決して無気力な心ではなく、偏見の無い開かれた心、素朴ながらも奥深い信仰、といったものです。男性を知らず、神から直接影響を受けた子の母となるということは、とてつもないことです。しかしマリアは動揺せず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。文語では「仰せのごとくわれになれかし」と言われますが、「なれかし(be it done)」はラテン語でFiatの一語となり、マリアの深い信仰に裏打ちされた従順さを示す一語(マリアのフィアット)として今日に至るまで伝えられています。

責務・運命をすべて一人で背負うのではなく、ある歴史の一節に過ぎない、3千年前からつながっている神と私達のつながりの中で、マリアの信仰と従順さを手本に今を生きましょう。昨日は過ぎましたし、明日はまだ来ません。今しかないのです。

2020年12月20日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第3主日(12月13日)の説教(テキスト)

「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ5-16 

今日読まれた、聖パウロのテサロニケの教会への手紙の有名な一節です。これは弱気になっている人への励ましの言葉でしょうか。私たちにとって、何を喜べば良いというのでしょうか。 

人生では喜びも悲しみもあります。そして先々がどうなるかは誰もわかりません。曇天の夜空の向こうには星が輝いていることは知っていても、実際に闇夜にいる時にはそんなことは想像できないものです。 

最近わたくしが聞いた嬉しい話は、喜びは小さな日常生活の中にあります。子供が生まれたり、就職したりした、今まで疎遠だった家族が会えるようになった、等々です。これらの個人の小さな幸せを分かち合い、私たちは団結・連帯して大きな問題に立ち向かわなければなりません。 

しかし現在はコロナ禍により人が集まることが難しく、教会もようやく徐々にあつまれるようになりましたが、わたくしたちは小さな羊の群れのようです。高齢化も進み、今までの感覚が消えていく寂しさも感じられます。このような時に、「いつも喜んでいなさい」とはどのような意味でしょうか。 

こんな時にこそ、聖書をとてもゆっくり読んでみましょう。イエスが実際、どんな時に喜んでおられたかを見てみましょう。 

 

人間としてのイエスの一生を見て、それは喜びがあるものであったのでしょうか。村々をめぐり病者を癒し、さまざまな人と出会います。味方だけでなく敵も増え、そして最後は十字架上の死を迎えます。この十字架上のイエスの姿、自分を処刑する人を許してくださいと神に祈るイエスの姿を思い起こしてください。これは天の父への無限の信頼、そして人に対する無限の許しの姿です。彼の心の底にある、本当の「力」を、今もわたくしたちは見ることができるのです。屈辱され十字架上の死で終わったイエスの30数年の人生は、失敗の人生であったのでしょうか。決してそうではありません。イエスはすべてを成し遂げ、神の人間への愛を示すという使命を果たしたのです。 

「喜びなさい」という意味は、心の喜び、イエスが私たちに示してくださった、心の奥にあるもっとも大事なものに気がつきなさい、という意味です。 

私たちはイエスのように弱さを克服し、イエスのように、悲しみ・屈辱・困難を乗り越え、最後には神様の御許に帰ることができます。それは隣人を助けることにより力を得、仲間と連帯することで自分の弱さを克服することから始まるのです。 

最後に、教皇様が3年前述べられた、「希望をもって喜びなさい」というお話を紹介させていただきます。是非ご覧になってください。

教皇フランシスコ、2017年3月15日一般謁見演説:14.希望をもって喜びなさい(ローマ12・9-13参照) | カトリック中央協議会 (catholic.jp)

2020年12月13日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第2主日(12月6日)の説教(テキスト)

「主のみちを整え、その道筋をまっすぐにせよ」というヨハネの言葉を聞くと、特に今パンデミックに苦しむ現世にあって、では救いの道はどのように示されているか世界中の人が知りたいと思うことでしょう。 

人間である以上、人は苦しみから救われたい、困難から解放されたい、と思うのは自然なことです。しかし、小説を飛ばし読みをして結末だけを知るようには、キリストが示す救いに到達することはできません。それは、一歩一歩、人と交わり、人と共に工夫しあって、キリストの道を歩んでいくことで到着できるものなのです。 

今日からはマルコによる福音書を読んでいきます。四大福音書は、マタイによる福音書は学者肌で理論的、ルカによる福音書は弱者と接するイエスの姿を詳述するなど、それぞれ特徴がありますが、マルコによる福音書は彼がペトロから聞いたことをまとめ、分量としては比較的短いものとなっています。それゆえ、要点をストレートに私達に投げかけてくるものとなっています。 

この福音書は洗礼者ヨハネが荒れ野にて洗礼を人々に授けるシーンから始まっています。当時ユダヤ教はローマ帝国の支配を容認し弱者保護には無関心であるなど、人々の支持を失いつつありました。そのままであれば、その親同様、ユダヤ教神官の道を歩んでいたであろうヨハネは、その道から離れ、荒れ野(砂漠)にて極めて質素な修道生活を始めました。 

文明社会から離れ、何もない砂漠の中で、神と自分とだけに向かい会う、そのことによって考えなかったことを知り、見えなかったものを見えるようになったのです。 

何も無い荒涼とした砂漠は神様と出会うには、適切な場所でありました。今の私達も、教会に来れなくなった、人と会えなくなった、聖体拝領もできなくなった、と同じ荒涼とした砂漠にいるように感じられている方もいると思います。しかし神様は、家でも社会の中でも、24時間答えてくださいます。どんな状況の中にあっても、神様は私達を見捨てることはないということを、忘れないようにしましょう。 

荒涼とした砂漠のイメージは、便利な都会の暮らしの対極にあると思われがちですが、実は今生きている私達の暮らしは、多くの責任や不安を抱え、慰め・共感・希望に乏しい殺伐としたものになりがちではないでしょうか。その意味では、砂漠に生きているといっても過言ではありません。これから救われるためには、今のライフスタイルを変え、別な生き方や生活を求める道を選ぶ、ということになります。ヨハネが砂漠に入り神と出会い、人生の中で大切なものは何かを知り、その後短くも最後まで神と共に歩んだ洗礼者ヨハネの生き方が参考になると思います。 

自分の使命に気づき、自分の生きる道筋をまっすぐにする、ということはいつでもできることです。それは洗礼を受け神とつながることによって確実となります。なぜなら神様は私達を決して見捨てないからです。 

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いていかれる」(イザヤ40-11) 

2020年12月6日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第1主日(11月29日)の説教(テキスト)

「目を覚ましていなさい!」と、今日読まれた聖書ではイエス様は3回も言われました。これはどのような意味なのでしょうか。

今日から待降節が始まりました。教会暦では今日からB年となり、これから一年間かけてマルコによる福音書を読んでいきます。マルコがイエスの直接の弟子ではなく、ペトロの話を受け取って書かれたこともあり、マルコによる福音書は先週まで読まれていたマタイによる福音書と少し異なります。これから少しずつ読みながら、その違いを味わい私達が、「目覚めるように」学んでいきましょう。

待降節が始まったということは、もう4週間後にはクリスマスが来てしまいます。救い主が来たと祝うのに、また来るとはどういうことでしょうか。

これはイエス様が人の形をとってこの世においでになり、死と復活をもって「良い知らせ」を私達に下さったあと天に戻られました。そののちに今の私達がいます。そしていつであるかはわかりませんが、この世がすべて終わる時に、イエス様は再び来られるのです。イエス様は決して私達を裁く怖い裁判官のような方ではなく、私達を喜んで迎えに来てくれる方です。ですから、その「いついらっしゃるかわからない」イエス様の再臨にそなえて、私達は常に目覚めていなければならないのです。

3週間前、いつ来るかわからない花婿を待つ乙女達が、うっかり灯の油を切らしてしまうたとえ話が読まれました(マタイ25,1-13)。日常の暮らしに流され、信仰や隣人愛といった心の油を切らし、暗闇の中で惰眠を貪ってはいけません、という警句でした。今日読まれた聖書も、日々の暮らしの中で、一歩進んでイエスの良い知らせとは何か、探さなければならないことを言っています。

現実を振り返れば、欧州ではコロナ禍がぶり返し、多くの人々が狭い環境に閉じ込められ、生活困窮者が増えています。日本においても同じ苦しみにあっている人が数多くいます。このような中からどのような解放をえられるでしょうか。

「目を覚ましていなさい」とは、私達は生きている限り毎日、チャンスがあるということです。

毎日、少しばかりの時間をとって、聖書を読む、祈る、瞑想するということを行いましょう。自分を見つめ、自分を認める訓練をしてみてください。

私は、いつ、どうなるなどという、今までいろいろな大きな計画を立てていた方々の中には、それらが今や大きく変わってしまったこともあるかもしれません。

しかし、大きな計画を立てられなくても、心の中で小さな目標を立てることができます。毎日、なんらかの形で「イエス様と出会う」そして「兄弟を助ける」ことはできます。そしてそのことにより、自分という人間を成長させることができます。

物質的には、今までどおりの日常生活に戻れないことがあるかもしれませんが、一人一人、自分自身の解放のために、自分のできる小さなことをすることにより、イエス様のように大きくなれるのです。

この待降節にイエス様と出会うために、次の祈りを唱えてみましょう。

「神様、あなたを良く信じている私達は、まだまだ弱い存在です。どうか私達を強め、あなたが離れている、留守だと思ってしまう時にも、あなたを思い出せる力と忍耐力をお与え下さい。そして時間を大事にし、イエス様と兄弟と共に歩み続けることができますように。」

最後に、一年前教皇様が来日した際に私達に与えてくださった課題を想いおこしましょう。

・世の中での平和の道を拓けますように

・互いに深い憐みをもって人を迎えることができますように

・教会の中、兄弟同士がより深く、本音で話し合うことができますように

また、このコロナ禍の中、帰国することもかなわず社会の底辺にあって苦しむ異邦人を助けることができますように。

「主よ、あなたはわれらの父、私達は年度、あなたは陶工。私達は皆、あなたの御手のわざ。(イザヤ647)

2020年11月29日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

王であるキリスト(11月22日)の説教(テキスト)

今週は教会暦では一年の最後の週にあたります。

どうしても、昨年の今頃はこのようなコロナ禍を想像だにしていなかった、つらい一年であったと心が沈んでしまいます。働くこと、学ぶこと、そしてそれを計画することすら出来なくなり、あらゆる活動の自粛を続けているうちに、心身の健康を損なう方も出ています。そしてこれらは今世界中で起きていることなのです。

こうした中、つらい過去を振り返るよりも、待降節を迎えるにあたり、これからどのような心持ちで、神様を信じて困難に立ち向かっていくべきか考えたいと思います。

このひと月私達はマタイによる福音書で、「神の国」の在り方やそこに向かう道を見てきました。

今日読まれた部分(マタイ25-3146)では、人が死後「最後の審判」により厳しく裁かれると描かれています。しかしこれは、独裁者のような神から一方的に罰を受けるという意味ではなく、今、羊飼いであるイエス様が、羊のように、集団で戸惑いながら生きている私達に対して、合図を送っているという意味なのです。私達が目を開けるように、神の合図を送ってくれているのです。それは、安全で幸せな神の国へ向かう道を指し示しているのです。

それでは、人間が神の国に入る、一番短くて確実な道とは何でしょうか。

それは、他者・隣人との「出会い」です。

そのために、人は積極的に生きなければなりません。それでは、「隣人」とは何でしょうか、誰でしょうか。

今日の福音では、世で「最も小さい人」で「飢えている者、渇いている者、無宿の者、裸の者、病んでいる者、入牢している者」であり、が私達が訪ねるべき隣人(=神ご自身)であると明かされます。

神のいう「隣人」とは、私達の地縁血縁は関係なく、私達は「隣人」を選ぶことはできないのです。私達がその人を見て、足を止めて、その人を助けようとした時から、その人は「隣人」となります。

また、教皇様が最近では、もはや「人の為」とはおっしゃらず、「人と共に」という言い方に変えていることに気がつきましょう。上から目線で、劣っている者に施しを授ける、という態度ではないのです。

その隣人と共に、歩んだり対話を始めたりすることが、神の国への最短の道なのです。

祈りは重要ですが、祈りながら同時に隣人を助けるということです。空想の世界の中で、自分の為だけに神頼みをする、ではないのです。

パリに居た頃、3年ほどジプシーと一緒に活動をしたことがあります。子供達が学校へ受け入れてもらえなかったり、「共に歩む」と言っても非常に困難な活動でした。しかし、困っている時、もうだめだと思った時にでも、自立・回復できる最初のきっかけは、「誰かが気にかけてくれている」というものです。誰かから力をもらえれば、少しずつ立ち上がれる気持ちなれるもので、そのことが神が最も喜ぶことなのです。

来週から待降節が始まります。

大変だった今年一年を振り返り、これからも続く試練の時に、神と兄弟姉妹とより良く共に歩む方法を考えましょう。

2020年11月22日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第33主日(11月15日)の説教(テキスト)

今日読まれた福音は、先週から引き続き、マタイ25章にて示されているキリスト者の「心構え」についてのものです。

先週では、人を迎える心、「心の油」というべきものを準備している人と、それを忘れてしまった人についての話でした。

人を迎える心を忘れて生きてしまう人は、自分の人生は他人に代わって生きてもらえることができないことと同じように、後になって他人に助けてはもらえない、という厳しいものでした。今日のタラントのたとえ話も、同じように、全く妥協しないイエス様の厳しい姿がみられます。優しいイエス様のはずなのに、なぜこのように厳しいものなのでしょうか。その訳を見てみましょう。

まず、今日のたとえ話の概略をもう一度みてみましょう。

主人が長期間不在となるのにあたり、数人の召使に大金を預けます。数年後主人が戻った時に、リスクを恐れて預かったお金を運用せずに、額面どおりそのまま返却した召使が厳しく叱責され、追放されるというたとえ話です。

旅にでる人とは神そのもので、召使すなわち人類は、創世記にあるように神からすべてを任されています。神が人間から離れていることは、人間を見捨てていることではなく、人間に託している(全世界を人間に譲っている)ということなのです。そのために神は、動物と異なり、人間だけにこの世を管理する能力をお与えになりました。

残念ながら、多くの人間はこのことを理解できず、単に優勝劣敗の生存競争を拡大するのみで、自分自身のありのままの姿を正しく評価できないのです。本質的にはむなしい富貴・権勢・華美などに惑わされ、他人をうらやんだり、憎んだり、そして不満ばかりが増していきます。

これは今日読まれたたとえ話で、タラント(自分の命)を守ろうとするあまりに、かえってそれを失い、「泣きわめいて、歯ぎしりする」状態を意味しています。

イエス・キリストが伝える「良い知らせ」とは、「自分のように他者を愛すること」です。それができないのは、「自分が神に愛されている」ことや「自分が神の目には、非常に価値がある」ということ理解できていないからです。

今日読まれたたとえ話で、預かったタラントを増やすことができた召使は、神に愛されていることを実感し神を信頼することができたからこそ、神から与えられた財産を増やそうと努力できたのです。一方、増やすことをせず土に埋めてしまった召使は、本当のところは神を信頼しておらず、自分自身だけを守ることだけに終始した人、を意味しています。

この物語からは、二つの点が学べると思います。

まず、私たちは皆、「神の姿」をもう一度はっきりイメージする必要があります。神は全ての人の幸せを強く願っています。私たちは他人の幸せのために働いているでしょうか。人を見下したり、無視したり、避けたりはしていないでしょうか。

そして、私たちが生きるということの目的は何でしょうか。ヨハネは「生きるということは、実を結ぶこと」と言っています。リスクをとって、他者に手を差し伸べることが生きることなのです。

2020年11月15日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第32主日(11月8日)の説教(テキスト)

最初に、七五三おめでとうございます。

子供たちの皆さんは、お家でお祝いをしましたか? 寂しいことにフランスには七五三はありません。

さて、子供のみんなは友達が家に遊びに来るときは何をしますか?

お母さんにケーキを作ってもらったり、部屋をかたづけたり、いっしょに遊ぶゲームの準備をしたりするのでしょう。

イエス様を信じる私たちも同じです。イエス様はいつか再びやってきますので、そのための準備をしなければなりません。

この世の終わりを「終末」と言いますが、その時にイエス・キリストは再びこの世に来られますので、そのために準備をするのです。

今日の福音(マタイ251-13)は、花婿を待つ10人の乙女の話でした。5人は賢く、しっかり準備していたので夜遅く訪れた花婿を迎えることができましたが、ほかの5人はおろかで準備をしていなかったので、灯りをともす油が無くて、迎えることができませんでした。

この「賢い」「おろか」という意味は、決して頭が良いということではなく、神様をしっかり信じて準備をするか、そうでないかという意味です。

優しい皆さんは、準備してきた乙女たちはなぜ油を困っている乙女たちに貸してあげなかったのかと思ったことでしょう。

それは、これはイエス様を迎える心の準備というものは、決して他の人に代わってやってもらえるものではなく、自分がやらなければならないことだからです。ちょうど自分の人生は、自分自身でしか生きることができないことと同じです。

今日の福音のポイントは、私たちキリスト信者が成長するためには、「忠実」(イエス様にしっかり従うこと)と「忍耐」(がまん強くなること)が大切だと言っています。

私たちは疲れて眠ってしまった「おろかな娘たち」と同じように、イエスを待ちくたびれて、休むことしかできない時があります。そのような時にでも、油(信仰:イエス様を信じること)が無ければ、心の灯をともし続けることはできません。夜が訪れても、信仰の油が切れないようにしましょう。

「わたしを遣わしたかたのわざを、わたしたちは日のあるうちに行わなければならない。誰も働くことのできない夜が来る。わたしはこの世にいる間、世の光である」(ヨハネ9-4

誰でもイエス様と出会う時に、心が改まり(回心)、情熱が入ります。しかしその後、長くキリスト信者として歩み続けるためには忍耐が必要とされるのです。

「言葉を聞いて実行する者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に例えられる。」(マタイ7-24

私たちは、「マラナタ、主よ、来てください」と歌います。

主が再び来られるとき、それはいつであるかはわかりませんが、「最後まで、耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24-13)のです。

 

2020年11月8日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

諸聖人(11月1日)の説教(テキスト)

今日は諸聖人のお祝いの日ですが、この祝いの趣旨は教会の発展に伴って、時代と共に変わってきました。

4世紀までは、イエス・キリストの後に従って信仰を証し、その結果天に召された数多くの殉教者たちを記念する日でした。教会の誕生以来、迫害されながらも布教に命をかけてきた兄弟たちの生き方は、まかれた種のように一人一人の心に信者の模範として芽生えてくるのです。

その後9世紀に、教会が分断された時代を通り抜けて、神の国の発展のために苦労を重ね、神と人へと愛を生きた無数の人々がいることを知るために、諸聖人の祝いと名づけられました。

さらに11世紀に修道会の活動が盛んになると、諸聖人と一般的な死者を記念し、祈りをささげる日となりました。

この祈るということは、どのような意味でしょうか。

特に、この春から今日に至るまで依然として、コロナウィルスの人質となっている私たちは何をすれば良いのでしょうか。

わたくしは、まず心を一つにして、天の父に向って祈ることが大切であると思います。

教皇フランシスコは、よく次のように語っています。

「パンデミックの時こそ、祈ることは大切です」、

「天の父との対話になり、魂の呼吸になる」、

「祈りとは、神のいつくしみのまなざしの前に身を置くことです」、と。

長い間、教会に以前のように集うことができず、日常生活のリズムを失い、人と人との「つながり」が弱くなっています。今まで目の前に輝いていた光が消えたような気持ちになっている方もおられると思います。

このような時こそ、適当な場所で時間をとって、ありのままの姿で、我々の弱さ、もろさを神にさらして、神に祈りましょう。

母の手のひらに包まれている幼子のように祈り続ける、そして謙遜な心で、すべての五感を使って神の声を聴きましょう。

布教活動をしていたイエスが口癖のように言っていた言葉、「小さな群れよ、恐れるな」を思い出しましょう。どんなことがあっても、現状を冷静に見なさいというイエスの言葉は、私たちの励みとなります。パウロが困っているフィリピ人へあてた手紙では、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように祈ります。」と言っています。

今日読まれた福音(マタイ5-1)では、キリスト者の目標と神のご加護が明確に示されています。

今現在、苦しみ涙を流しつつ歩みを続ける私たちに、神は明確に天の国を約束してくださっています。

飢えた状態から歩みだし、工夫し助け合い、神の国へ向かいましょう。毎日の生活の中で重荷を負っている人は、世俗の価値観という余分な荷を下ろし、イエスの言う「心の貧しい人」となりましょう。

時代を超えて、天の国に戻られたイエスと、地上に残されている私たちとは固い絆で結ばれています。そして信仰宣言の中で「聖徒の交わり」と言われているとおり、この世の信徒そして先に天に召された者とも目に見えない連帯の鎖でつながれています。イエスと共に神の神殿に住む先に召された人々を思い起こし彼らのために祈ることで、現世に生きている私たちは、互いに力を合わせ、人を大切に思うことができるのです。

2020年11月1日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第27主日(10月4日)の説教(テキスト)

今日は、 マタイ21章の後半、ぶどう園を「私物化」する管理者たちのことが語られています。この背景として、エルサレムへ向かうイエスの自伝も読まれます。

 

このたとえ話ででてくる「ぶどう園」というものは、創造主である神に創造された世界です (優れた先端技術のぶどう園で、やぐらはもちろん垣 (ガキ)も搾り場もあります)

 

この世界を管理するのは神から任さられている人間の役割で、これを地主が農地を農民に貸すという、ローマ帝国ではごく普通であった地主と小作人のたとえ話にしました。

 

歴史上、神と人間との間には3回ほど契約が結ばれ(ノア、アブラハム、モーゼ)、世界を管理する人間の命は神に守られていました。そして、人間がその約束を守 らない時、神の代表である預言者が遣わされ、その契約を思い出させてくれます。

 

しかし、その役割を果たす預言者は、人間に無視されるだけでなく、殺されてしまうのです。 そして最後の手段として、神様は自分の一人息子イエスを送って下ったのです。にもかかわらず、イエスは預言者と同じ運命を受ける (神は世を愛するほどに、一人子をお送りになって、十字架にかけられる)のです。

 

しかし人間の残酷さよりも、神様の良さ・優しさがより大きいものに見られるようになります。それは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」とあるように、捨てられた息子 (一人子イエス)が、世界の救い主になったのです。イエス・キリス トという石 ()の上に、おん父である神が自分の国を建てられるようになったのです。教会はその国の入口となったのです。

 

最近、教皇様が国連で行った演説は大変インパクトのあるものでした。

 

Covid-19の世界的流行の中で、兄弟愛と思いやりのあふれる社会作りを提案し、「共通の家の将来と共通の計画を考え直す」よう促したのです。Covid 19の流行で多くの命が奪われましたが、この危機を機会に、経済・健康・社会を考え直し、人間の弱さ・脆さに向き合い、生き方を変えてみましょう。 必要と必要でないことを区別し、正しく選択しましょう。

 

新しい道、神の世界づくりの計画に参加する、正義に基づく連帯、人間家族の平和のために働く、そして回心するきっかけに大切にする、ということです。

 

神様と自分と他者の関係を見直し、自国中心主義・エリート主義を排し、貧しく弱く、疎外されている人々を思いやりましょう。

 

教皇フランシスコが出した3番目の回勅(LAUDATE SI)は人間と自然との関係について書かれたものでした。本日出される4番目の回勅(Fratelli tutti)は、兄弟愛について私たちに課題を示しています。

 

1 基本的な医療を受ける権利 (医療制度を見直す)

 

2   将来を築き上げるための科学技術の役害」と道徳性の点から考える

 

3   雇用拡大 (労働の実り)と、非正規雇用・ロボット・長時間労働の規制、

 

4 難民・移民問題の解決 :入国管理、亡命者、家族

 

5 「もったない」文化の醸成 (食べ物、買い物のプラスチック袋、生活スタイル)

 

6 国際経済の見直し (グローバルに考え、ローカルに実践する)

 

7 実権配分 Subsidiarityという政治的な用語がありますが、これは権限委譲、規制緩和、という意味も含みます。一人ひとり (特に立場の弱い人)の独立性、自発性をうながし、お互いに一致を求め、希望在与えるものです。そのために、社会内の各レベルの上下関係を乗り越えたダイナミックな相互援助が望まれるのです。お互いの立場を尊重し、総合援助を生かせることによって、社会の中での一人ひとりの責任を生かせるのです。

2020年10月4日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第26主日(9月27日)の説教(テキスト)

先週に引き続き、今週の福音もマタイによる福音書のぶどう園で働く人のたとえ話ですが、今日はレベルが高まって、イエスと神殿の祭司長達との対話です。いえ、対話というよりも、激しい激論といったほうが良い内容です。皆さまと一緒に考えていきたいと思います。

 

このたとえ話には、父と、それと共に働く兄弟が出てきます。仕事の話ですので、父は兄弟に対して、主人としてぶどう園で働くように依頼します。兄は父とは違う考えを持っていましたので、いったんはその依頼を断りました。しかし、後から思い直してぶどう園へ向かい、その日ブドウ園で働きました。一方、弟は即座に「ぶどう園に行きます」と父に言ったものの、結局ぶどう園に行くことはありませんでした。

 

イエスは祭司長たちに「この兄弟のうち、どちらが父親の望み通りにしたか?」と尋ね、彼らから「兄のほうです」という答えを得ています。これには、イエスの伝えたい意図がありました。

 

それは、兄のように「様々な理由により神の希望に添えない、あるいは全く逆の生き方をしている人であったが、のちに『思い直して』神の道を進む人」のほうが、弟のような「外見はとても神の希望に添うように言っておきながら、結局肝心のことは何もしない人」よりも、神の国に先に入るという意味です。

さらに、イエスはこの兄のような人々として、当時人々から過酷に税金を取り立てたりくすねたりしている悪人・ヤクザ者と思われていた『徴税人』や倫理から外れてると思われていた『娼婦』を挙げました。彼らのほうが神殿で神事を熱心に司る、支配階層である祭司長達よりも、先に神の国に入るといったのです。

これはイエスが単に社会階層が下の者を尊んだのではなく、自分たちは(やむなく)罪を犯していると思っている徴税人・娼婦が、預言者ヨハネの言葉に従い、イエスを信じたことによります。こうした回心の心をもった徴税人・娼婦のほうが、言葉では神を讃えつつ行いとしては尊大なふるまいで人々を傷つけ搾取している祭司長達よりも、神の目にははるかに尊いとイエスは言っています。

神のご計画へ、口先だけでなく、心と行いによって実際の参加を求めるイエス様の言葉は、私たちにとって大きなチャレンジです。

私たちは日ごろ、様々なニュースに接しています。その中に埋もれそうになっているものが、私たちには関係が無いと思われるような人々、それも弱く力のない人々が苦しんでいるといったものです。例えば、このコロナ禍の中で、外国人労働者がしわ寄せを受けたり、不法入国者収容所で支援を受けられず死んでいく人もいます。また日本の外では多くの子供たちが中南米などで売買されたり貧困労働に苦しんでいます。

神は私たちに協力を依頼されており、私たちは動かなければなりません。私たちは自分だけを中心とした生き方や価値観を変えなければならないのです。たとえ話の弟のような生き方で終わるのか、思い直して兄の生き方に変わるのか、神は常に問いかけています。

まずは、もっとも基本的な人との関係から見ていきましょう。夫婦の間で、夫は妻の気持ちや考えを、妻は夫の気持ちや考えを、本当に思って生活しているでしょうか。また同様に、親子の間でも、本当に相手の気持ちや考えに踏み込んで、思いやっているでしょうか。本音とタテマエがあるのは、日本も欧州も同じですが、自分を守ろうとする自己防衛の心、そして自分のプライドを守ろうとする心に負けず、兄のように「思い直し」ましょう。

神の言葉が左の耳から右の耳へただ抜けていくのではなく、しっかり今日心で受け入れましょう。明日では遅いのです。

2020年9月27日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者