年間第26主日(9月27日)の説教(テキスト)

先週に引き続き、今週の福音もマタイによる福音書のぶどう園で働く人のたとえ話ですが、今日はレベルが高まって、イエスと神殿の祭司長達との対話です。いえ、対話というよりも、激しい激論といったほうが良い内容です。皆さまと一緒に考えていきたいと思います。

 

このたとえ話には、父と、それと共に働く兄弟が出てきます。仕事の話ですので、父は兄弟に対して、主人としてぶどう園で働くように依頼します。兄は父とは違う考えを持っていましたので、いったんはその依頼を断りました。しかし、後から思い直してぶどう園へ向かい、その日ブドウ園で働きました。一方、弟は即座に「ぶどう園に行きます」と父に言ったものの、結局ぶどう園に行くことはありませんでした。

 

イエスは祭司長たちに「この兄弟のうち、どちらが父親の望み通りにしたか?」と尋ね、彼らから「兄のほうです」という答えを得ています。これには、イエスの伝えたい意図がありました。

 

それは、兄のように「様々な理由により神の希望に添えない、あるいは全く逆の生き方をしている人であったが、のちに『思い直して』神の道を進む人」のほうが、弟のような「外見はとても神の希望に添うように言っておきながら、結局肝心のことは何もしない人」よりも、神の国に先に入るという意味です。

さらに、イエスはこの兄のような人々として、当時人々から過酷に税金を取り立てたりくすねたりしている悪人・ヤクザ者と思われていた『徴税人』や倫理から外れてると思われていた『娼婦』を挙げました。彼らのほうが神殿で神事を熱心に司る、支配階層である祭司長達よりも、先に神の国に入るといったのです。

これはイエスが単に社会階層が下の者を尊んだのではなく、自分たちは(やむなく)罪を犯していると思っている徴税人・娼婦が、預言者ヨハネの言葉に従い、イエスを信じたことによります。こうした回心の心をもった徴税人・娼婦のほうが、言葉では神を讃えつつ行いとしては尊大なふるまいで人々を傷つけ搾取している祭司長達よりも、神の目にははるかに尊いとイエスは言っています。

神のご計画へ、口先だけでなく、心と行いによって実際の参加を求めるイエス様の言葉は、私たちにとって大きなチャレンジです。

私たちは日ごろ、様々なニュースに接しています。その中に埋もれそうになっているものが、私たちには関係が無いと思われるような人々、それも弱く力のない人々が苦しんでいるといったものです。例えば、このコロナ禍の中で、外国人労働者がしわ寄せを受けたり、不法入国者収容所で支援を受けられず死んでいく人もいます。また日本の外では多くの子供たちが中南米などで売買されたり貧困労働に苦しんでいます。

神は私たちに協力を依頼されており、私たちは動かなければなりません。私たちは自分だけを中心とした生き方や価値観を変えなければならないのです。たとえ話の弟のような生き方で終わるのか、思い直して兄の生き方に変わるのか、神は常に問いかけています。

まずは、もっとも基本的な人との関係から見ていきましょう。夫婦の間で、夫は妻の気持ちや考えを、妻は夫の気持ちや考えを、本当に思って生活しているでしょうか。また同様に、親子の間でも、本当に相手の気持ちや考えに踏み込んで、思いやっているでしょうか。本音とタテマエがあるのは、日本も欧州も同じですが、自分を守ろうとする自己防衛の心、そして自分のプライドを守ろうとする心に負けず、兄のように「思い直し」ましょう。

神の言葉が左の耳から右の耳へただ抜けていくのではなく、しっかり今日心で受け入れましょう。明日では遅いのです。

2020年9月27日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者