王であるキリスト(11月22日)の説教(テキスト)

今週は教会暦では一年の最後の週にあたります。

どうしても、昨年の今頃はこのようなコロナ禍を想像だにしていなかった、つらい一年であったと心が沈んでしまいます。働くこと、学ぶこと、そしてそれを計画することすら出来なくなり、あらゆる活動の自粛を続けているうちに、心身の健康を損なう方も出ています。そしてこれらは今世界中で起きていることなのです。

こうした中、つらい過去を振り返るよりも、待降節を迎えるにあたり、これからどのような心持ちで、神様を信じて困難に立ち向かっていくべきか考えたいと思います。

このひと月私達はマタイによる福音書で、「神の国」の在り方やそこに向かう道を見てきました。

今日読まれた部分(マタイ25-3146)では、人が死後「最後の審判」により厳しく裁かれると描かれています。しかしこれは、独裁者のような神から一方的に罰を受けるという意味ではなく、今、羊飼いであるイエス様が、羊のように、集団で戸惑いながら生きている私達に対して、合図を送っているという意味なのです。私達が目を開けるように、神の合図を送ってくれているのです。それは、安全で幸せな神の国へ向かう道を指し示しているのです。

それでは、人間が神の国に入る、一番短くて確実な道とは何でしょうか。

それは、他者・隣人との「出会い」です。

そのために、人は積極的に生きなければなりません。それでは、「隣人」とは何でしょうか、誰でしょうか。

今日の福音では、世で「最も小さい人」で「飢えている者、渇いている者、無宿の者、裸の者、病んでいる者、入牢している者」であり、が私達が訪ねるべき隣人(=神ご自身)であると明かされます。

神のいう「隣人」とは、私達の地縁血縁は関係なく、私達は「隣人」を選ぶことはできないのです。私達がその人を見て、足を止めて、その人を助けようとした時から、その人は「隣人」となります。

また、教皇様が最近では、もはや「人の為」とはおっしゃらず、「人と共に」という言い方に変えていることに気がつきましょう。上から目線で、劣っている者に施しを授ける、という態度ではないのです。

その隣人と共に、歩んだり対話を始めたりすることが、神の国への最短の道なのです。

祈りは重要ですが、祈りながら同時に隣人を助けるということです。空想の世界の中で、自分の為だけに神頼みをする、ではないのです。

パリに居た頃、3年ほどジプシーと一緒に活動をしたことがあります。子供達が学校へ受け入れてもらえなかったり、「共に歩む」と言っても非常に困難な活動でした。しかし、困っている時、もうだめだと思った時にでも、自立・回復できる最初のきっかけは、「誰かが気にかけてくれている」というものです。誰かから力をもらえれば、少しずつ立ち上がれる気持ちなれるもので、そのことが神が最も喜ぶことなのです。

来週から待降節が始まります。

大変だった今年一年を振り返り、これからも続く試練の時に、神と兄弟姉妹とより良く共に歩む方法を考えましょう。

2020年11月22日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者