年間第27主日(10月4日)の説教(テキスト)

今日は、 マタイ21章の後半、ぶどう園を「私物化」する管理者たちのことが語られています。この背景として、エルサレムへ向かうイエスの自伝も読まれます。

 

このたとえ話ででてくる「ぶどう園」というものは、創造主である神に創造された世界です (優れた先端技術のぶどう園で、やぐらはもちろん垣 (ガキ)も搾り場もあります)

 

この世界を管理するのは神から任さられている人間の役割で、これを地主が農地を農民に貸すという、ローマ帝国ではごく普通であった地主と小作人のたとえ話にしました。

 

歴史上、神と人間との間には3回ほど契約が結ばれ(ノア、アブラハム、モーゼ)、世界を管理する人間の命は神に守られていました。そして、人間がその約束を守 らない時、神の代表である預言者が遣わされ、その契約を思い出させてくれます。

 

しかし、その役割を果たす預言者は、人間に無視されるだけでなく、殺されてしまうのです。 そして最後の手段として、神様は自分の一人息子イエスを送って下ったのです。にもかかわらず、イエスは預言者と同じ運命を受ける (神は世を愛するほどに、一人子をお送りになって、十字架にかけられる)のです。

 

しかし人間の残酷さよりも、神様の良さ・優しさがより大きいものに見られるようになります。それは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」とあるように、捨てられた息子 (一人子イエス)が、世界の救い主になったのです。イエス・キリス トという石 ()の上に、おん父である神が自分の国を建てられるようになったのです。教会はその国の入口となったのです。

 

最近、教皇様が国連で行った演説は大変インパクトのあるものでした。

 

Covid-19の世界的流行の中で、兄弟愛と思いやりのあふれる社会作りを提案し、「共通の家の将来と共通の計画を考え直す」よう促したのです。Covid 19の流行で多くの命が奪われましたが、この危機を機会に、経済・健康・社会を考え直し、人間の弱さ・脆さに向き合い、生き方を変えてみましょう。 必要と必要でないことを区別し、正しく選択しましょう。

 

新しい道、神の世界づくりの計画に参加する、正義に基づく連帯、人間家族の平和のために働く、そして回心するきっかけに大切にする、ということです。

 

神様と自分と他者の関係を見直し、自国中心主義・エリート主義を排し、貧しく弱く、疎外されている人々を思いやりましょう。

 

教皇フランシスコが出した3番目の回勅(LAUDATE SI)は人間と自然との関係について書かれたものでした。本日出される4番目の回勅(Fratelli tutti)は、兄弟愛について私たちに課題を示しています。

 

1 基本的な医療を受ける権利 (医療制度を見直す)

 

2   将来を築き上げるための科学技術の役害」と道徳性の点から考える

 

3   雇用拡大 (労働の実り)と、非正規雇用・ロボット・長時間労働の規制、

 

4 難民・移民問題の解決 :入国管理、亡命者、家族

 

5 「もったない」文化の醸成 (食べ物、買い物のプラスチック袋、生活スタイル)

 

6 国際経済の見直し (グローバルに考え、ローカルに実践する)

 

7 実権配分 Subsidiarityという政治的な用語がありますが、これは権限委譲、規制緩和、という意味も含みます。一人ひとり (特に立場の弱い人)の独立性、自発性をうながし、お互いに一致を求め、希望在与えるものです。そのために、社会内の各レベルの上下関係を乗り越えたダイナミックな相互援助が望まれるのです。お互いの立場を尊重し、総合援助を生かせることによって、社会の中での一人ひとりの責任を生かせるのです。

2020年10月4日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第26主日(9月27日)の説教(テキスト)

先週に引き続き、今週の福音もマタイによる福音書のぶどう園で働く人のたとえ話ですが、今日はレベルが高まって、イエスと神殿の祭司長達との対話です。いえ、対話というよりも、激しい激論といったほうが良い内容です。皆さまと一緒に考えていきたいと思います。

 

このたとえ話には、父と、それと共に働く兄弟が出てきます。仕事の話ですので、父は兄弟に対して、主人としてぶどう園で働くように依頼します。兄は父とは違う考えを持っていましたので、いったんはその依頼を断りました。しかし、後から思い直してぶどう園へ向かい、その日ブドウ園で働きました。一方、弟は即座に「ぶどう園に行きます」と父に言ったものの、結局ぶどう園に行くことはありませんでした。

 

イエスは祭司長たちに「この兄弟のうち、どちらが父親の望み通りにしたか?」と尋ね、彼らから「兄のほうです」という答えを得ています。これには、イエスの伝えたい意図がありました。

 

それは、兄のように「様々な理由により神の希望に添えない、あるいは全く逆の生き方をしている人であったが、のちに『思い直して』神の道を進む人」のほうが、弟のような「外見はとても神の希望に添うように言っておきながら、結局肝心のことは何もしない人」よりも、神の国に先に入るという意味です。

さらに、イエスはこの兄のような人々として、当時人々から過酷に税金を取り立てたりくすねたりしている悪人・ヤクザ者と思われていた『徴税人』や倫理から外れてると思われていた『娼婦』を挙げました。彼らのほうが神殿で神事を熱心に司る、支配階層である祭司長達よりも、先に神の国に入るといったのです。

これはイエスが単に社会階層が下の者を尊んだのではなく、自分たちは(やむなく)罪を犯していると思っている徴税人・娼婦が、預言者ヨハネの言葉に従い、イエスを信じたことによります。こうした回心の心をもった徴税人・娼婦のほうが、言葉では神を讃えつつ行いとしては尊大なふるまいで人々を傷つけ搾取している祭司長達よりも、神の目にははるかに尊いとイエスは言っています。

神のご計画へ、口先だけでなく、心と行いによって実際の参加を求めるイエス様の言葉は、私たちにとって大きなチャレンジです。

私たちは日ごろ、様々なニュースに接しています。その中に埋もれそうになっているものが、私たちには関係が無いと思われるような人々、それも弱く力のない人々が苦しんでいるといったものです。例えば、このコロナ禍の中で、外国人労働者がしわ寄せを受けたり、不法入国者収容所で支援を受けられず死んでいく人もいます。また日本の外では多くの子供たちが中南米などで売買されたり貧困労働に苦しんでいます。

神は私たちに協力を依頼されており、私たちは動かなければなりません。私たちは自分だけを中心とした生き方や価値観を変えなければならないのです。たとえ話の弟のような生き方で終わるのか、思い直して兄の生き方に変わるのか、神は常に問いかけています。

まずは、もっとも基本的な人との関係から見ていきましょう。夫婦の間で、夫は妻の気持ちや考えを、妻は夫の気持ちや考えを、本当に思って生活しているでしょうか。また同様に、親子の間でも、本当に相手の気持ちや考えに踏み込んで、思いやっているでしょうか。本音とタテマエがあるのは、日本も欧州も同じですが、自分を守ろうとする自己防衛の心、そして自分のプライドを守ろうとする心に負けず、兄のように「思い直し」ましょう。

神の言葉が左の耳から右の耳へただ抜けていくのではなく、しっかり今日心で受け入れましょう。明日では遅いのです。

2020年9月27日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第25主日(9月20日)の説教(テキスト)

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55-8

今日読まれたマタイによる福音書(マタイ20-116)は、エルサレムに向かうイエスの最後の話を伝えてくれています。

ペトロを教会のリーダーに指名し、教会のメンバーはお互いに深く交わりあい、共に祈り、そして赦し合うことを教えたイエスでしたが、イエスにはまだ気になっていることが一つありました。それは、後継者の信仰の養成でした。信仰を高めるためには、神の国について明確なイメージを持たなければならないとイエスは考えられ、「神が人間を選んで、神ご自身の計画に人間が参画することを望まれる」という真理を人々に理解させるために、ブドウ園に雇われた労働者の話をします。ちなみにブドウ園とは、旧約聖書(例えば詩篇79章やエゼキエル17章)の頃より、人間のために神が働く場所として、たとえとして使われているものです。

このブドウ園では主人がブドウ園の収穫に協力してくれる人を求めます。そして雇われた(神に選ばれた)人々が次々に、そのブドウ園(神の世界)の条件に従って、ブドウ園で働いているのです。そして誤解しないように気をつけなければならないのは、主人(神)も人々と共に働いているということです。朝から夕方まで、主人が出かけて人を雇うということは、できるだけ多くの人々の人生に役に立ちたい、何回も広場に訪れては一人ひとり招くのです。神も努力をしているのです。

そしてこのたとえ話のポイントとなる、「朝早く、最初から働いてくれる人から、ギリギリ5時から働き始めた人まで、皆同じ報酬が支払われる」という部分は、人間の価値基準で考える私たちにはわかりにくいものです。

労働時間や効率性、結果などで管理する雇い主や、裁判官として人を裁くのではなく、神は、その計画に協力してくれる人一人ひとりに心から感謝をしたいのです。そこには投入された労働や得られた結果よりは、その人間の生い立ち・背景、考えや気持ちの移り変わりなど、その一生のすべてを深く考慮して、主人として自由に自分自身で決めるのです。そこには他の人間に説明する義務は全くありません。

神は私たちの人生の中で、いろいろな時、機会を通じて、私たちの心の扉に訪れてくれます。私たちがこれに気がつけば幸いです。神は、人類の救いのわざのために共に協力して欲しいという希望を、私たちに与えてくれます。そして共に働くという契約(洗礼)で私たちはお互いに結ばれます。協力する者になれば、働き始めた順番(年数)だとか、労働条件の違いなどは大きな問題ではありません。先に助かった者と後から助かった者との間に優劣が無いように、私たちと神との関係は、直接的な深い親子の関係であり、他の何にも干渉・影響されないのです。

それでも、信者であるということは、人間でありながら神の要求に応じていくということは、まさに「板挟み」の連続であるので、一生を信仰と隣人愛に捧げた立派な信者と、臨終の際に洗礼を授かった信者は等しく天の国に入ると言われると、釈然としない気持ちになるかもしれません。

そのような時には、旧約聖書のメッセージ「人間は神の姿に創造された」を思い出してみましょう。人間は、生涯を行き渡る人間像(模範)が与えられており、神のわざに協力することによって、生涯の道が開かれています。しかし、多くの場合は人間の側に聞く耳が無く、「自分の姿に似せて神をつくろうとする」のではないでしょうか。そのように、人間の価値観により人を裁く神は、聖書に紹介されている神ではなく、人の心を支配する、単なる偶像にすぎません。私たちは、神の無限の寛容さ・優しさを思い起こし、自分もその一部となれる幸せを思い起こしましょう。

2020年9月20日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第24主日(9月13日)の説教(テキスト)

皆さん、おはようございます。
今日の福音は、引き続きマタイ福音書18章、信仰共同体と「ゆるし合い」についてです。
私達は「主の祈り」を唱えていますが、その中に神に向かって私達の罪を許してくださいという部分がありますね。
「わたしたちの罪をおゆるしください、私たちも人を許します」、という部分です。
この祈りのとおり、神様は私達を許してくださいますが、決してそれで終わりではありません。
神から許される前提として、私達も隣人を許してあげなくてはいけないのです。
「やられたらやり返す」ということではなく、神が私達になさるように、人を許す、すぐにはできなくても憎しみを少しずつ許し受け入れていくということです。
教会リーダーに任命されたペトロは、これを聞き、「それではいったい、何回許せば良いのですか、7回ですか?」と尋ねます。
イエスは7の70倍、つまりどんなことがあっても、生涯努めなければならない、と言ったのです。
「あなたがた一人ひとりが心から兄弟を赦さないないなら、わたしの天の父もあなた方に同じようになさるでしょう」(マタイ18-35)
この、お互いに許し合うことを説くイエスの思いは、神とイスラエルの間に契約が結ばれ逸脱には罰が下される旧約の考え方から離れ、人が伸び伸び成長できるよう道をしめしたものです。
神と人間の関係は法律ではなく、愛によって結ばれた絆です。逸脱した場合でも深い反省(回心)があれば、復讐や罰がくだされることなく、再出発することが許されるのです。
この神からいただける愛を、わたしたち人間もお互いに与えあうことを、神は望まれています。
一方、わたしたちが生きている現実の世の中は、負けてはいけない、やられたらやり返す弱肉強食の世界です。誰もが被害者の気持ちでいるので、復讐は大変気持ちの良いことです。
こうした中、どうしたら神が望まれるように、人を許すこころを持てるというのでしょうか。
イエスの十字架上の最期を思い出してみましょう。
「父よ、彼らは自分が何をやっているのかわかっていません、彼らをお許しください」と臨終の際に自分を殺める人々を許し、神に許しを乞うたのです。
最期の最期まで私たちがお互いに許し合うことを望まれたイエスを思い出し、復讐はまた新たな復讐しか生まないことに気づきましょう。
今日読まれたパウロの書簡(ローマ14・7-9)のように、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という心持ちで、
主のように人々の心の痛みを感じれば、主のように悩む隣人にも手を伸ばすことができるのです。

2020年9月13日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第23主日(9月6日)の説教(テキスト)

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

おはようございます。今日は私たちの共同体の形について考えてみたいと思います。

先月よりマタイ16章についてお話していますが、先々週ではペトロの強い信仰告白と、それに報いる形でイエスが教会のリーダーとして天国へつながる「教会の鍵」を与えた話をいたしました。今日の福音朗読はその続きです。イエスは弟子の乏しい理解力をおもんばかって、少しずつ教会の精神は何かを説いています。

教会とは、大きな、「人々の交わりの場」であり「祈りの場」であります。人々とつながって、兄弟姉妹として愛し合い、偽善や義務感ではなく、人間らしくいたわりあい、成長しあう場です。キリスト教が迫害されていた初代教会の頃は、二、三人がイエスの名前にて集まれば、それだけで大変な危険を冒すことでした。

今現在では、迫害はありませんが、コロナウィルスのために、教会に大勢で集まれない状態が続いています。忍耐を続けている信者の皆さんに感謝する一方、信仰共同体(Ecclesiaエクレシア)について考えてみましょう。それは単に習慣的に集まって、儀式をするだけの集まりではないのです。イエスはご自身の帰天後生まれる、このエクレシアについて、どう組織構成されるかなどというよりも、その信仰共同体がどのような精神を保っていくか、を最も優先しました。

その精神はつぎの二つから成る、二本足のものです。

  1. お互いに深く交わること

    一番小さい人(困っている、自立できないなど)を家族のように優先的に迎え、生活状況は違っていても互いに尊敬しあい、尊重しあうこと、また我々が責任をもって他人を受け入れられるよう罪やあやまちを責めたり罰するよりも、その人の世界に飛び込みまず理解してあげること、などが大切です。イエスも評判の悪い人々(徴税人、犯罪者、罪深い女など)と共に飲食し、一般社会からは理解されず批判されていました。誰でも考え方を変えるのは困難ですが、兄弟の優しい助け合いによってこそ、努力の基盤となる希望が生まれるのです。また、初代教会では、皆の前で罪を告白することによって、自分の弱さを皆に分かってもらい、これが、互いに交わり、赦しあうカタチとなり、互いに助け合っていたのです。

  2. 祈ること

行動は瞑想、反省に裏打ちされていなければなりません。祈りと行動は私たちの生き方の両面です。

今年に入って、ミサの共同祈願を各班で考え作っていただいています。飾った心ではなく、ナマの声、きれいごとではなくて、実際の生活の困難についても、兄弟の前で神様に「きりぬける力と勇気をお与えください」と祈ってみましょう。祈願を絶え間なく続けることは、交わりを改善するため欠かせないことです。こうして初めて信者同士の対立や共同体全体の困難を解決し、社会のなかでイエス・キリストの良い知らせを伝えることが可能なのです。

この「交わりと祈り」の場である教会は、共に神に祈り、世の人々を知り、困難の中にある人々に奉仕するためのものです。単なる内輪の「仲良し集団」ではなく、ましてや、味方の数を増やし敵をやっつけようというものでは決してありません。

教会堂という建物は、愛の交わりと祈りの場であり、神の存在の目に見える「しるし」であります。ここに、しばらくの間、フルメンバーで集まることができないのは、本当に残念ですが、別の形で最も大事なことである信仰共同体の兄弟同士の「つながり」を深めるよう挑戦してみませんか。第一朗読にあるように、エゼキエルの時代、キリスト者はイスラエルの家を危険から守る見張り役でした。現代では、この役は、一人では信仰を持つ事のできない人々に、世間が偏向した情報しか流さない中、一人一人に生きるための情報を伝えるということです。また第二朗読で読まれたように、愛しあうことについて兄弟・親子の間といえども「借り」をつくらないようにいたしましょう。つまり、愛を注がれた相手には、愛し返すことです。これが、「借り」返すことになります。「互いに愛しあう」と言うこと。このことは、とても大事なことです。

兄弟と教会との深い交わりによって、教会信徒一人ひとりが成長できることを願い、神様に祈っています。

2020年9月6日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第22主日(8月30日)の説教(テキスト)

今日の福音は先週に引き続き、同じマタイによる福音書第16章です。

先週読まれた箇所では、ペトロが得意満面にイエスへの信仰を公言し、喜んだイエスがペトロを弟子たちのリーダーにするという箇所でした。二人の関係は「信じれば報われる」という、あたかも順風が吹くようなものでしたが、そのすぐあとに、イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と叱る事態となってしまいます。順風から逆風へ、これは一体なぜ起きてしまったのでしょうか。そしてこれは私たちにどのような意味を持っているのでしょうか。

教会の礎の岩として、ペトロに信仰と奉仕の責任が与えられた一方、ペトロは十字架に向かうイエスの意思をまだ十分理解していませんでした。エルサレムに行けば迫害されることは明らかであることから、イエスの命を守るため、当然のこととしてエルサレム行きに反対したのです。イエスの考えはまったく別のところにありました。

イエスは弟子たちに、「イエスが神であること」を信じるだけでは十分ではないと諭し、十字架に向かって苦しむ「人の子としてのイエスの姿」を彼らがはっきり心に刻むことを望まれました。その姿とは、自分の利益を守り、最大化するという「人間の論理」に基きお互い戦い続けるという「人間の道」から離れ、「人のために命を捧げる」という神の道を受け入れる姿です。自分を守るために武器をとって戦うのではなく、人をかばうために我が身を投げ出す、という姿です。

そして「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままであるが、死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ12-24)」と言ったことをご自身で示されたのです。

イエスがペトロに伝えようとしたことは、イエスが今、現代を生きる私たちに伝えたいことでもあります。

生きて行くため、幸福になるためには、人生において戦い続けなければなりませんが、永遠に勝ち続けることはできません。そして守りに転じ、困難・重荷を単に拒み続ければ、いずれは自分の中に閉じこもり、生きがいを失い、自分自身が死んでしまうようになります。

礼拝を日曜日にして良かったと満足するだけではなく、自分の人生を何らかの形で捧げること、自分を守ろうとするのではなく、与えることが必要なのです。それはもちろん簡単なことではありませんが、毎週のミサで自分自身を強め、神イエスへの思いを通して、人と出会い、神の論理に基いて人と接する、ということを目指しましょう。祈りとは、そのような神の道に近づくための原動力が湧き出る尽きることのない泉です。祈りを通じてイエスとつながり、自分の十字架を担う力をいただきましょう。

主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。」(エレミヤ:20-9)

2020年8月30日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第21主日(8月23日)の説教(テキスト)

「人々は人の子のことを何者だと言っているのか」(マタイ16-1323

半年前から、今回のコロナ禍によって、出口の見えない長いトンネルに入っている気持ちになっている方も多いと思います。

私はこのコロナ禍を神が人間に与えた試練というよりも、人間が自然との「未知との遭遇」によって大きな傷を負った、ととらえます。

上掲のイエスの呼びかけによって、私達は目覚めていることができるのか、そして未来への望みが再び湧いて出てくるか、考えたいと思います。

人の子、イエス・キリストとは何者か。

このイエスの名のもとに、時代によって、良いこともそうでないことも、激しく行われてきました。

例えば12世紀の聖フランシスコは、現代の飽食の私達からみれば極端な清貧な暮らしを幸せにおくり、その自然との和解の精神は私達の模範となっています。

また、アウシュビッツ収容所という究極の絶望の場においても希望を失わず、最後は身代わりによる死を選んだコルベ神父は、究極の隣人愛の姿を私達に示しています。

一方、イエスの名を戴いた者が傲慢となり、十字軍や宗教戦争といった悲惨な戦いが熾烈に繰り広げられたこともありました。

このような大きな違いは、まさに私達がイエス・キリストをどのようにとらえているか、によって変わってくるのです。

イエスは今、私達一人ひとりに直接尋ねています。

「あなたの人生の中で、私イエスは、どう存在していますか?」と。

無関心か、知っていても無視しているのか、あるいは、ほどほどに大切にしているだけなのか。

この問いかけを受けたシモンは、自信満々で「あなたはメシアです」とはっきりと答え、イエスを喜ばせます。

ご自身が「神でありながら人間でもある」ことをあかしながら、イエスは彼をペトロ=岩と呼び、「岩の上にわたしの教会をたてる」と宣言し、彼の特別な立場を明らかにしました。この時はまだ、今のような教会組織は無く、信者の共同体にすぎませんでした。荒海に漂う小舟のような不確かな存在でしたが、イエスは「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」として教会の不滅を保証し、ペトロに「『天の国の鍵』が授けられる」としたのです。

それでは、この『天の国の鍵』とはどのようなものでしょうか。

一般的な解釈としては、ペトロがイエスから、初代教皇としての特別な権威、人の罪を許すことができる権威と考えられています。

さらには、ダビデの家の鍵(イザヤ22-1923)にあるように、人のところに自由に出入りすることができる権能、なのです。

鍵を持つ人の権能(それは同時に使命であるのですが)として、鍵を開錠することで、苦しみ・悲しみ・疎外・抑圧からの解放、兄弟姉妹の自由、自立のための扉を開ける、そして自ら開錠するという、自分自身の人生の主役となることを意味しています。

また施錠するということは、人々を一つに繋ぎ、固く結ぶ、神様と隣人と解け難く一体化する、それを尊敬しあう、認め合う、分かちあう、助けあう、といった行動により実際に実現する、ということを意味しています。

「私は誰?」と問うたイエスに対し「あなたはメシアです」ペトロは答え、喜んだイエスは『天の国の鍵』をお与えになりました。

イエス様は、今、生きている声で、私達一人ひとりに同じ質問を呼びかけているのです。

2020年8月23日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第20主日(8月16日)の説教(テキスト)

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12-24)  

 

8月18日は当教会でラウレンチオ戸田帯刀(とだ・たてわき)神父が、75年前に凶弾に倒れ殉教された日です。

戸田神父の殉教は、ジャーナリストの佐々木宏人氏による長い取材の結果、『封印された殉教』(フリープレス)という本にまとめられ、近年明らかになりました。

今日は、戸田神父の歩みとそこから私達が学べることを考えていきたいと思います。

戸田神父の歩み

1898年(明治31年)3月23日、山梨県に生まれる

1923年(大正12年)ローマ、ウルバノ大学に留学

1927年(昭和2年)12月17日、司祭叙階 

 

1940年(昭和15年)10月、札幌使徒座代理に任命され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)3月「英米を相手に戦争したらどうなるかわからない」と同僚神父に話したとして旧陸軍刑法違反で逮捕された。4回の公判の後、無罪となり釈放された。釈放された後の1944年(昭和19年)10月に横浜に移り、香港沖で亡くなった井手口神父の後任として横浜教区長となった。 

1945年(昭和20年)4月、戸田神父は教皇ピウス12世に対し、太平洋戦争の平和的解決について、メッセージを送っていた。(ただし、それはアメリカ戦略事務局に「フェイクニュース」として止められ、内容については明らかになっていない。)

終戦当時、山手教会は海軍に接収されていたが、教会を海軍に引き渡すときに、「残念ながら、その戦争は日本の負けです。8月15日には終戦となるでしょう。それは無原罪のマリア様の被昇天の祝日だから、その日に終結するのがふさわしいからです。」と語っていた。

終戦の日の翌日である8月16日に山手教会へ行き、海軍に山手教会を早く変換するよう要請している。その2日後の18日午後、保土ヶ谷教会で射殺体となって、発見された。当時教会内の建物を借りていた保健所の人は、その日に憲兵が一人訪れたと証言している。

遺体の解剖の後、内野作蔵浦和教区長によって8月22日が葬儀が営まれたが、戦後の混乱のために会葬者はわずか10数名であった。そして事件から約10年後、吉祥寺教会に「わたしは戸田教区長を射殺した者です。今は心から罪を悔いています。どうしたら良いでしょうか。」と訴えるものが現れた。これについて東京司教事務所からは「許せばいい」という返事のみがあり、警察に通報されることもなく、当時横浜にいた憲兵の一人と名乗った告白者も、その後姿を消しました。

戸田神父殉教の意味

平和旬間を終わろうとするにあたり、私達は平和の使徒であった戸田神父を偲びながら、平和を考えたいと思います。

保土ヶ谷教会の聖堂入口の階段の脇に、石碑が建てられています。

それには、戸田神父が横浜教区長になられた時に書かれた自らの決意(信仰宣言)が刻まれています。

「私は、世界平和のために、日本のため、自分の命をささげます。」と。

この強い信念の言葉は、言い換えれば、これからどんなことがあっても、横浜教区を立て直してみせます、と理解できます。この強い信念は終戦の年の5月、ドイツ降伏のニュースを聞いた時に発せられた言葉「私共はどんな事態になっても日ごろ覚悟して、死後の永遠なる生命を確信しつつ、戦いの現在に忍苦克服、生死を超えて、依って良き戦いを戦うべきであります」に示されています。

そしてこの信念は次のような行動となってきます。

平和のためによく祈る

山手教会が接収されるまで、戸田神父は昼頃になると必ず聖母像の前で熱心に祈り続けていたそうです。その祈りとは、「聖時間」と呼ばれていました。戸田神父は「十字架にかけられるキリストがゲッセマネの園で逮捕される前、脂汗を流しながら必死に神に祈っている時、弟子たちは眠っていました。私達は目を覚ましていなければなりません」と聞く人に話していたそうです。私達も心からイエスに、人類と世界の救いを忍耐強く願うものでなければなりません。

貧しい者への共感と連帯

焼野原となった横浜教区4県を回り、教会や信徒、司祭、修道者の日常生活の貧しさを把握し、こう言っていました。「戦争に負ければ、日本の国民の苦難は大変なものになるであろうし、万一勝ったにしても、この息苦しい軍国主義の時代が続くことは、特にキリスト教全体にとって耐えがたいことになる。けれども皆、日本を愛し信じている庶民ばかり、私もその一人だ。」

不屈の精神

山手教会の接収に反対し、その返還をつぎのような言葉で強く主張していました。「神はすべての上に立つ「顔」として、キリストを教会にお与えになりました。教会は、キリストの「体」です。カトリック教会の司祭として信仰のシンボルである聖堂を軍に供出することから守ろう、抵抗するしかない。」 「聖堂に根が生えているんですよ。体を引っ張っても決して動きませんよ...。」

コロナ禍の中にいる今の私達にとって、このような、神によく祈り、弱者と連帯し、そして決してあきらめない戸田神父の生きざまから、学べるものは多いと言えるのではないでしょうか。

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、キリストの死と復活がなければ、永遠の命が与えられませんでした。初代教会の時にも、今も、多くの殉教者が涙と血という「種」をまくことによって、教会が生まれ変わっていったのです。

2020年8月16日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

聖母の被昇天(8月9日)の説教(テキスト)

皆さんおはようございます。毎年8月15日は、この教会の守護聖人でもある、聖母の被昇天の祝い日です。暦の都合上、15日ではなく、本日お祝いしたいと思います。

1981年にヨハネパウロ2世が来日されて以来、8月6日から15日までを平和旬間とし、祈りとともに平和について考えることが行われています。本日聖母マリアの被昇天をお祝いいたしますので、マリアの心、平和の道具であるマリアがどのように私たちの求める平和と関係しているか、お話したいと思います。

まずマリアについてですが、言うまでもなくマリアはイエス・キリストの母です。そしてその子イエスは人間社会の旧来の価値観を破壊し、新しい未来を打ち立て、そして十字架上で死んでいきました。その十字架の下で最後までイエスを見守り、イエスは直接自分の母に、新しく生まれた教会の母となるよう使命を与えました。 今日読まれた福音(ルカ1-46~55)は特別に「マリアの賛歌(マグニフィカト)」と呼ばれ、マリアを現わすものとして現代まで伝えられてきました。

この賛歌は次の三部構成となっています。

1. マリアは「幸いな女」であった。大事業を行うための「神の器」となった。

2. マリアが生む子は、人間の内面世界を逆転させる。

3. マリアの体内から始まった事業は、神が明言して始められた。

幸いな女、マリア 世俗的な見方に従えば、マリアは不幸で悲惨な境遇にあった女性、と思う人もいます。確かに、誰にも信じてもらえない出産のことを始め、その子が処刑されてしまうことなど、俗世であれば耐え難い出来事でしょう。しかし、マリアは子供の頃から覚えてきた聖書の言葉が常に浮かんで来るような信心深い方で、自分のうえに何が起きているのかよく理解できている「幸いな女であることを深く実感するマリア」であったのです。 今日読まれたように「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう」とマリアが言ったのは、この自分を用いて神がなさろうとしている業の大きさを見つめ、よく理解できているからそう言えたのです。 わたしたちも洗礼を受けて、自分と家族のためだけでなく、神のためにも働いているはずです。マリアの信仰と神の計画への理解を思い起こし、わたしたちも神の計画に参画できているか、自問してみましょう。

人間の内面世界が逆転される マリアは自分の中に宿った生命が、やがて人間の価値をひっくりかえし、人間世界の秩序が、天と地が入れ替わるほど、逆転していくことをわかっていました。マリアが生んだイエスは、多くの人々と触れ合い、一人ひとりに人間性を再び与えてくれるのです。そしてそれにより、卑しいものが引き上げられたり、飢えている人が満腹させられたりする一方、高みにいた人が下ろされたりするのです。つまり富や権力と無縁な者でもイエスの道をたどれば心の平安と永遠の命が保証される一方、この道に外れる者たちには報いがあることを意味しています。

マリアの体内から始まった神の事業 神が初めた事業は、旧約の時代(約束されたもの、人間の解放)から始まり、未来までそのまま続いていきます。そのような中、絶えず祈り続けるマリアの姿は、昔の人々(先祖)と我々、そして未来の人々をつなぐ架け橋のようです。人々の間の連帯を結び、前の人と、後からやってくる人の間をつなぐように祈ります。こうして私たちの教会は、マリアの祈りによって守られているのです。 世界の平和を築き上げるためには、惜しみなく自分を捧げたイエスと、教会を見守るマリアの心を思い起こす必要があります。

最後に、これらの心を端的に表すものとして、イギリスの学者、ベナード・ベンソンの言葉を紹介致します。 「自分を守ろうとするものは、武器がいる。けれども自分自身を盾にして人を守ろうとすれば、平和が可能になります。」

2020年8月9日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第18主日(8月2日)の説教(テキスト)

5班の皆さんおはようございます。

このように順番で限られた人数ではありますが、こうして聖堂でお会いすることができとても嬉しく思います。

新型コロナは依然として確実な情報や指針が乏しい一方、増え続ける感染者数のみが報道され、皆さんの間でも不安や恐れをお持ちのことと思います。

今日読まれたマタイによる福音書は、イエスの帰天後50年ほど経って書かれたものですが、その頃も初代教会は弾圧や仲間割れなどにより、不安や恐れに苛まされていました。そしてその後ユダヤ社会そのものも、紀元73年にローマによる滅亡に至るまで、大混乱の極みにありました。

こうした不安や恐れに苦しむ私達を、神様はどのように見ているのでしょうか。

今日読まれた、有名な「パンを裂き群衆に分け与えた奇跡」(マタイ14・13)をもう一度見てみましょう。
洗礼者ヨハネの訃報に接したイエスは、静かに祈るために人里離れたところに退きます。

そこへ何千人もの群衆が救いを求めて、イエスの後を追って来たのです。

その群衆、指導者がおらず右往左往している群衆(つまり、これは現代の私達そのものの姿ですが)を深く憐み、その中の病人を癒したのです。

そして群衆が去らず、人里離れた場所であったので、人々のその晩の夕食が心配な状況になってしまいました。

現実を見る弟子たちは、人間の常識に従って、人々を帰宅させることをイエスに勧めました。

これに対してイエスは、「行かせることは無い」と強く否定し、人々を留まらせたのです。人間の常識に従う弟子たちは、神であるイエスの考えを全く分かっていませんでした。

果たして、弟子たちが恐れていた通り、夕食時には食料が足りなくなりましたが、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言うのみです。

そこで弟子たちは、今はこれしかありませんと、とある少年が差し出した(ヨハネ65)五つのパンと2匹の魚をイエスに捧げました。するとイエスは奇跡をおこし、5千人の群衆を満足させる食料を生み出したというお話です。

現代の解釈では、少年が持てるすべてをイエスに差し出したことを契機として、群衆の中で食料を持っている人が次々と持たない人に分け与え始めたというものがあります。これによれば、このイエスの奇跡の神髄は、人々の心の中にあるものをイエスが生かした、ということであり、直接的には小さな名もない少年の勇気がきっかけになったということです。

この解釈は不安や恐れに苦しみ、「奇跡」や「救い」を待ち望む私達にとって、示唆するものがあるのではないでしょうか。

自分を守ることの虜となり、不安や恐れに苦しんでいた群衆は、ここで初めて助け合うこと・分かち合うことを知り、心から「満腹した」のです。つまり人間らしく生きる、孤独な金の亡者としてつまらない人生を送るのではなく、人々と分かち合うことにより、泣いたり笑ったり共にすることが人間らしく生きるということであると学んだのです。この少年が自分の食料を差し出したように、あるいは寡婦の献金(ルカ212)で語られているように、自分に必要なものを隣人に与えることこそが、最も人間らしい価値のある行為であり、心を「満腹させる」ものであるのです。

不安や恐れの虜となり、他人よりも自分の安全のみを気にしていると、最後は他人に対して攻撃的になってしまいます。

最近読んだ記事ですが、ベトナム人の若い女の子が通りがかりの人に、「中国人は国に帰れ!」と怒鳴られたそうです。

そのことを知ったその子の先生は、学校で日本赤十字社が警告している次の3つの「負のスパイラル」を、学校で紹介したそうです。

第一の感染症: 病気としてのCOVID-19そのもの

第二の感染症: 不安と恐れ。「気づく力」「聴く力」「自分を支える力」を弱める

第三の感染症: その結果、「嫌悪」、「偏見」、「差別」が助長され、信頼関係ひいては社会そのものが崩壊する

神様はイエスが群衆を憐れんでくださったように、私達を深く憐れんでくださっています。

どうか私達が、最初に自分の食料を差し出した少年のように、神様の奇跡のきっかけとなれるよう、神様の助けを願いましょう。

2020年8月2日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者