年間第25主日(9月20日)の説教(テキスト)

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55-8

今日読まれたマタイによる福音書(マタイ20-116)は、エルサレムに向かうイエスの最後の話を伝えてくれています。

ペトロを教会のリーダーに指名し、教会のメンバーはお互いに深く交わりあい、共に祈り、そして赦し合うことを教えたイエスでしたが、イエスにはまだ気になっていることが一つありました。それは、後継者の信仰の養成でした。信仰を高めるためには、神の国について明確なイメージを持たなければならないとイエスは考えられ、「神が人間を選んで、神ご自身の計画に人間が参画することを望まれる」という真理を人々に理解させるために、ブドウ園に雇われた労働者の話をします。ちなみにブドウ園とは、旧約聖書(例えば詩篇79章やエゼキエル17章)の頃より、人間のために神が働く場所として、たとえとして使われているものです。

このブドウ園では主人がブドウ園の収穫に協力してくれる人を求めます。そして雇われた(神に選ばれた)人々が次々に、そのブドウ園(神の世界)の条件に従って、ブドウ園で働いているのです。そして誤解しないように気をつけなければならないのは、主人(神)も人々と共に働いているということです。朝から夕方まで、主人が出かけて人を雇うということは、できるだけ多くの人々の人生に役に立ちたい、何回も広場に訪れては一人ひとり招くのです。神も努力をしているのです。

そしてこのたとえ話のポイントとなる、「朝早く、最初から働いてくれる人から、ギリギリ5時から働き始めた人まで、皆同じ報酬が支払われる」という部分は、人間の価値基準で考える私たちにはわかりにくいものです。

労働時間や効率性、結果などで管理する雇い主や、裁判官として人を裁くのではなく、神は、その計画に協力してくれる人一人ひとりに心から感謝をしたいのです。そこには投入された労働や得られた結果よりは、その人間の生い立ち・背景、考えや気持ちの移り変わりなど、その一生のすべてを深く考慮して、主人として自由に自分自身で決めるのです。そこには他の人間に説明する義務は全くありません。

神は私たちの人生の中で、いろいろな時、機会を通じて、私たちの心の扉に訪れてくれます。私たちがこれに気がつけば幸いです。神は、人類の救いのわざのために共に協力して欲しいという希望を、私たちに与えてくれます。そして共に働くという契約(洗礼)で私たちはお互いに結ばれます。協力する者になれば、働き始めた順番(年数)だとか、労働条件の違いなどは大きな問題ではありません。先に助かった者と後から助かった者との間に優劣が無いように、私たちと神との関係は、直接的な深い親子の関係であり、他の何にも干渉・影響されないのです。

それでも、信者であるということは、人間でありながら神の要求に応じていくということは、まさに「板挟み」の連続であるので、一生を信仰と隣人愛に捧げた立派な信者と、臨終の際に洗礼を授かった信者は等しく天の国に入ると言われると、釈然としない気持ちになるかもしれません。

そのような時には、旧約聖書のメッセージ「人間は神の姿に創造された」を思い出してみましょう。人間は、生涯を行き渡る人間像(模範)が与えられており、神のわざに協力することによって、生涯の道が開かれています。しかし、多くの場合は人間の側に聞く耳が無く、「自分の姿に似せて神をつくろうとする」のではないでしょうか。そのように、人間の価値観により人を裁く神は、聖書に紹介されている神ではなく、人の心を支配する、単なる偶像にすぎません。私たちは、神の無限の寛容さ・優しさを思い起こし、自分もその一部となれる幸せを思い起こしましょう。

2020年9月20日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者