主の公現(1月3日)の説教(テキスト)

人生の道を歩んでいく中で、目標を失うことはとても辛いことです。

昨年はそのような経験があったという気がします。朝早くおきること、一日の準備をすること、家から出て出発することなどが、難しくなってしまいました。 先のことが見えなくなってしまったので、不安を覚えるようになりました。

今日、マタイ福音書に紹介されている占星術の学者たちは、どのような人たちだったのでしょうか。

-彼らは間違いなく、出発する勇気がありました。

-彼らは開かれた心と、明確な真理を求める探求心がありました。

それでは、彼らは何を追求していたのでしょうか。彼らは、満足できなくなった日常生活からしばらく離れて、生きる意味を再び探し求めていたのです。命をかけるほど、新しい目標を求めていたのです。

「私たちは、東方の国でそのかたの星を見たので、拝みに来ました。」

長い間、星空の研究をしてきたおかげで、かれらはエルサレムまで来ることができました。そしてエルサレムに来ると星が止まり、星の導きが終わったことに驚きました。星空を追求する旅が終わり、科学的手段の限界を受け止めて、高いところから低い地上を捜索する作業に変わったのです。そして、ついに、飼い葉桶に寝かせてある赤ん坊を発見したのです。

占星術者たちの物語は、それぞれの思想、宗教を超えて、神を求めている人たちの物語です。地上の日常生活から離れたい、苦しみ悩みから解放してくれる天に向かいたい、と思うことはあると思います。しかし、インターネットを検索しても、マスメディアに現れる様々な言説に従っても、何も見つかりません。イエス・キリストの神は私たちの上に立つ存在ではなく、目の前に麦わらの上に寝かされている、マリアの赤ちゃんの中におられます。

神は、ヘロデ大王のような支配者、残酷な独裁者ではなく、私たちと同じ高さで目線を合わせてくれる、謙遜で弱い者の姿、存在になります。

占星術者たちはいったんは、エルサレムの大神殿に到着し、ヘロデ大王の王宮にも訪問しましたが、そこにはイエスはおらず、田舎の小さな村であるベトレヘムまで歩かなければなりませんでした。

2000年経った今でも、多くの人たちは真理を追求しようとして、いまだに残念ながら間違った方法をとっています。大神殿や王宮にいくことも、良いでしょう。しかし、本当の神はそのようなところにはおらず、貧しい馬小屋におられるのです。

馬小屋に到着した占星術者たちは、幼いイエスに東方から持ち込んだ供物をささげます。ゼニ・カネの欲望そのものである黄金、人を魅惑し支配する力の象徴である乳香、不老不死の肉体へのこだわりの象徴である没薬をイエスにささげ、それらへの執着から解放されたのです。

馬小屋でうまれた赤ん坊は死ぬために人間になったわけではありません。生きるために、また彼を信じる人が真に生きるために、人間になったのです。イエスと出会った占星術者たちは、「ヘロデを避けて、生きる幸せの鍵を手にとって、自分たちの国に帰っていった」のです。

新年には人生の新しい1ページが開きます。何も書いていない真っ白なページです。これからの一年間、占星術者のような心で、イエス様と私たちの兄弟姉妹を探しましょう。そしてイエス・キリストを心に宿し生きていけるように、新しい出発をいたしましょう。

2021年1月3日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

聖家族(12月27日)の説教(テキスト)

皆さん、ご存じのように24日のクリスマスから3日の主の公現の祝日まで、教会の典礼はイエス様の降誕について黙想するようになっています。今日はその中でもイエス様とその家族、聖家族についてです。聖書の中の聖家族は、あまりにも美化されている気がいたします。私たちは、イエス様とその両親が、本当のところどのような家族であったか、見ていきたいと思います。

どの国、どの時代でも、家族は社会の最小単位の核です。社会が痛むときには、その最小単位である家族に最初にしわ寄せがいき、家族が苦しむことになります。

ナザレにあったイエス様の家庭もそうでした。

マリアはすべてのことを心に留めていたと、言われていますが、何を心配していたのでしょうか。今日読まれたルカ福音書の中では、幼子イエスを抱いたマリアは神殿でシメオンと出会い、イエスの活動と受難、そして「心を剣で刺される」と表現されたマリア自身の苦しみを予言されています。マリアも家庭生活においては私たち以上に、悩み苦しみがあったことは想像に難くありません。

一方、父ヨゼフはイエス様の父親でしたが、マリアはヨゼフを知る前に妊娠したので、実際には養父というものでしょう。ヨゼフは神の御子誕生とその名をイエスと名付けるようにとの天啓を受け、それを信じ従います。この従順さは、創世記に描かれている蛇に騙されて神を欺くエヴァと好対照を成しています。ヨゼフは神を信じその保護を受けます。一方エヴァはその保護から離れた結果、価値観が分裂・崩壊し自分が誰だかわからなくなってしまいました。

先ほど申しましたように、戦争をはじめ社会が分裂し厳しい状況に陥ると、それは家族にしわ寄せがいき、家族の間にも分裂や不和が生じます。アダムとエヴァが楽園を追われた後、カインが弟アベルを殺してしまうのは家庭内不和の極端な例です。また今日の第一朗読で触れられたように、アブラハムとその妻サラが長く不妊に苦しむなど、家庭内の問題は昔も今も変わりありません。しかしアブラハムが、折角生まれたイサクを神に試されて、供物に捧げかけたように、私たちの信徒の先達は家庭内の問題に直面した時には、神に従うことでその問題から切り抜けてきました。

家庭内虐待が社会問題となって久しくなります。忙しくて面倒を見ることができないのか、そもそも子供を愛することができないのか、子供が放置されたり虐待されることが報道されています。家庭内の雰囲気はとても大切なものです。父親・母親・兄弟に愛されて育ったという感覚を持つ人は、家庭が心を癒す場所であるということをわかっているので、家庭内で困難に直面してもそれに立ち向かうことができるのでしょう。「他者と共に生きる」というのは、実は社会だけでなく家庭内においても、難しいものなのです。家庭内では各人がそれぞれの仕事をしているだけではなく、お互いの顔を見て、今どのような気持ちでいるのか察しあうことが大切です。この雰囲気があってはじめて、何かを生み出す家庭、たとえそれが潰れても立て直すことができる家庭、になるのだと思います。

今までカトリック教会は、結婚は神の秘跡として、厳しい見方をとってきました。愛の掟を貫くということですが、それは十字架が縦板と横板から成っているように、神から人への愛(縦方向)と人間同士の愛(横方向)を愛の交わりとして固く繋げるということです。家庭生活のなかでは色々な出来事が生じます。アクシデントや不幸と思われることが起きても、神への信仰と教会の人々との交わりの中でそれを受け止め、人間としてのバランスをとれるようになるのです。家族同士の信頼が時として損なわれ危機に陥ることもあります。このような時、神を忘れ、罪を犯したダビデが悔悟ののちに神から許されたことを思い起こしてみましょう。信頼を忘れて自己中心に陥り、好ましくないことをしても、ダビデは神から捨てられませんでした。それはダビデが深く反省し償う心があったことと、そのようなことを超える「絆」が神とダビデの間にあったことを意味します。

このように家庭生活に関連する箇所は聖書にはこのほかにも多くあり、私たちの家庭生活や人間関係を見直す時には、聖書をひもといてみましょう。このとき次の三点に気をつけると良いと思います。

・聴くこと:神様のみ言葉に従う、聖書のメッセージに耳を傾ける、各家族メンバーの声を聴くこと。

・生命を大切にすること:子供は自分のものではなく神から預けられたもの、共に成長していく雰囲気づくり。

・協力すること:マリッジエンカウンターなど、夫婦や家族の問題を話しあう相手や場を見つけること。

最後に、自分自身だけでなく、困っている家族、苦しんでいる家族への関心を私たちは持ち、家族同士、愛の交わりを深めることができることを神に祈りたいと思います。

2020年12月27日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第4主日(12月20日)の説教(テキスト)

皆さん、待降節最後の日曜日、クリスマスももうすぐです。

今日は、イエス様が宿られたマリア様の模範に学びながら、イエス様を迎える準備をしたいと思います。

今日の第一朗読で読まれた旧約聖書、サムエル記(サムエル下71)は、今から3千年前、長い間砂漠でさまよっていた神の民がイスラエルという約束の地に定着するようになった頃の話です。

その約束の地をめぐる異邦人との長い戦いに勝利したダビデ王は、レバノン杉でできた素晴らしい王宮に住めるようになりました。しかしダビデ王は、自分がこのような壮麗な建物に住んでいるにもかかわらず、我らの主がおられる契約の箱は、幕屋に安置されたままであることに不安を感じます。そこで、預言者を通して神殿を建てたいと神に相談したのです。ところが、預言者に下ったお告げは、そのようなものは不要であるということでした。

つまり、神とは、そのような狭い箱に入り壮大な大神殿の奥の院にあるようなものではなく、神はどこにでもいるもの、特に人の心の中に住むことを望んでおられる、ということだったのです。

確かに仲間と共に、神と祈りにより結びつくことができる、落ち着いた場所は必要でしょう。しかしそれを強調しすぎると、かえって神が人の普段の心から離れていきます。神は定住するよりも、ひとところに落ち着かず放浪生活が好きなのです。人間には感知できない、どこにでも、いつでもいる存在であり、人の心の中に宿るものであり、また、宿りたいと願っているものなのです。

このことを、今日の第二朗読(ローマ16-25)の中でパウロは別な角度から言っています。

神は大神殿の奥の院にあり神官に守られあがめられたりするものではない、と何度も何度も預言者を通して人間に伝えているのに、人間はそれを聞かずに神殿を建ててしまう。そこで、神ご自身であるイエス・キリストを世に送り、異邦人でも誰でも、日常生活の中で、人と人との交わりの中で、すべての人と神が出会うことができるようにする、というのが「神のご計画」であり、福音(神の良い知らせ)なのです。

この神のご計画では、神は人間の手で作られた壮麗な神殿ではなく、マリアというナザレの若い女性の胎内に宿ることになりました。今日読まれたルカ福音書(ルカ1-26-38)では、医者であったルカがマリアの受胎告知の情景を具体的に詳述しています。カトリックではガブリエル、ラファエル、ミカエルを三大天使といい、それぞれ「神の影響力」「神による癒し」「神の力」を伝える存在です。そのガブリエルが現れ、神のご計画をマリアに伝えたのです。

このルカ書で描写されるマリアの姿は、感情をあらわにはしませんが、決して無気力な心ではなく、偏見の無い開かれた心、素朴ながらも奥深い信仰、といったものです。男性を知らず、神から直接影響を受けた子の母となるということは、とてつもないことです。しかしマリアは動揺せず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。文語では「仰せのごとくわれになれかし」と言われますが、「なれかし(be it done)」はラテン語でFiatの一語となり、マリアの深い信仰に裏打ちされた従順さを示す一語(マリアのフィアット)として今日に至るまで伝えられています。

責務・運命をすべて一人で背負うのではなく、ある歴史の一節に過ぎない、3千年前からつながっている神と私達のつながりの中で、マリアの信仰と従順さを手本に今を生きましょう。昨日は過ぎましたし、明日はまだ来ません。今しかないのです。

2020年12月20日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第3主日(12月13日)の説教(テキスト)

「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ5-16 

今日読まれた、聖パウロのテサロニケの教会への手紙の有名な一節です。これは弱気になっている人への励ましの言葉でしょうか。私たちにとって、何を喜べば良いというのでしょうか。 

人生では喜びも悲しみもあります。そして先々がどうなるかは誰もわかりません。曇天の夜空の向こうには星が輝いていることは知っていても、実際に闇夜にいる時にはそんなことは想像できないものです。 

最近わたくしが聞いた嬉しい話は、喜びは小さな日常生活の中にあります。子供が生まれたり、就職したりした、今まで疎遠だった家族が会えるようになった、等々です。これらの個人の小さな幸せを分かち合い、私たちは団結・連帯して大きな問題に立ち向かわなければなりません。 

しかし現在はコロナ禍により人が集まることが難しく、教会もようやく徐々にあつまれるようになりましたが、わたくしたちは小さな羊の群れのようです。高齢化も進み、今までの感覚が消えていく寂しさも感じられます。このような時に、「いつも喜んでいなさい」とはどのような意味でしょうか。 

こんな時にこそ、聖書をとてもゆっくり読んでみましょう。イエスが実際、どんな時に喜んでおられたかを見てみましょう。 

 

人間としてのイエスの一生を見て、それは喜びがあるものであったのでしょうか。村々をめぐり病者を癒し、さまざまな人と出会います。味方だけでなく敵も増え、そして最後は十字架上の死を迎えます。この十字架上のイエスの姿、自分を処刑する人を許してくださいと神に祈るイエスの姿を思い起こしてください。これは天の父への無限の信頼、そして人に対する無限の許しの姿です。彼の心の底にある、本当の「力」を、今もわたくしたちは見ることができるのです。屈辱され十字架上の死で終わったイエスの30数年の人生は、失敗の人生であったのでしょうか。決してそうではありません。イエスはすべてを成し遂げ、神の人間への愛を示すという使命を果たしたのです。 

「喜びなさい」という意味は、心の喜び、イエスが私たちに示してくださった、心の奥にあるもっとも大事なものに気がつきなさい、という意味です。 

私たちはイエスのように弱さを克服し、イエスのように、悲しみ・屈辱・困難を乗り越え、最後には神様の御許に帰ることができます。それは隣人を助けることにより力を得、仲間と連帯することで自分の弱さを克服することから始まるのです。 

最後に、教皇様が3年前述べられた、「希望をもって喜びなさい」というお話を紹介させていただきます。是非ご覧になってください。

教皇フランシスコ、2017年3月15日一般謁見演説:14.希望をもって喜びなさい(ローマ12・9-13参照) | カトリック中央協議会 (catholic.jp)

2020年12月13日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第2主日(12月6日)の説教(テキスト)

「主のみちを整え、その道筋をまっすぐにせよ」というヨハネの言葉を聞くと、特に今パンデミックに苦しむ現世にあって、では救いの道はどのように示されているか世界中の人が知りたいと思うことでしょう。 

人間である以上、人は苦しみから救われたい、困難から解放されたい、と思うのは自然なことです。しかし、小説を飛ばし読みをして結末だけを知るようには、キリストが示す救いに到達することはできません。それは、一歩一歩、人と交わり、人と共に工夫しあって、キリストの道を歩んでいくことで到着できるものなのです。 

今日からはマルコによる福音書を読んでいきます。四大福音書は、マタイによる福音書は学者肌で理論的、ルカによる福音書は弱者と接するイエスの姿を詳述するなど、それぞれ特徴がありますが、マルコによる福音書は彼がペトロから聞いたことをまとめ、分量としては比較的短いものとなっています。それゆえ、要点をストレートに私達に投げかけてくるものとなっています。 

この福音書は洗礼者ヨハネが荒れ野にて洗礼を人々に授けるシーンから始まっています。当時ユダヤ教はローマ帝国の支配を容認し弱者保護には無関心であるなど、人々の支持を失いつつありました。そのままであれば、その親同様、ユダヤ教神官の道を歩んでいたであろうヨハネは、その道から離れ、荒れ野(砂漠)にて極めて質素な修道生活を始めました。 

文明社会から離れ、何もない砂漠の中で、神と自分とだけに向かい会う、そのことによって考えなかったことを知り、見えなかったものを見えるようになったのです。 

何も無い荒涼とした砂漠は神様と出会うには、適切な場所でありました。今の私達も、教会に来れなくなった、人と会えなくなった、聖体拝領もできなくなった、と同じ荒涼とした砂漠にいるように感じられている方もいると思います。しかし神様は、家でも社会の中でも、24時間答えてくださいます。どんな状況の中にあっても、神様は私達を見捨てることはないということを、忘れないようにしましょう。 

荒涼とした砂漠のイメージは、便利な都会の暮らしの対極にあると思われがちですが、実は今生きている私達の暮らしは、多くの責任や不安を抱え、慰め・共感・希望に乏しい殺伐としたものになりがちではないでしょうか。その意味では、砂漠に生きているといっても過言ではありません。これから救われるためには、今のライフスタイルを変え、別な生き方や生活を求める道を選ぶ、ということになります。ヨハネが砂漠に入り神と出会い、人生の中で大切なものは何かを知り、その後短くも最後まで神と共に歩んだ洗礼者ヨハネの生き方が参考になると思います。 

自分の使命に気づき、自分の生きる道筋をまっすぐにする、ということはいつでもできることです。それは洗礼を受け神とつながることによって確実となります。なぜなら神様は私達を決して見捨てないからです。 

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いていかれる」(イザヤ40-11) 

2020年12月6日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第1主日(11月29日)の説教(テキスト)

「目を覚ましていなさい!」と、今日読まれた聖書ではイエス様は3回も言われました。これはどのような意味なのでしょうか。

今日から待降節が始まりました。教会暦では今日からB年となり、これから一年間かけてマルコによる福音書を読んでいきます。マルコがイエスの直接の弟子ではなく、ペトロの話を受け取って書かれたこともあり、マルコによる福音書は先週まで読まれていたマタイによる福音書と少し異なります。これから少しずつ読みながら、その違いを味わい私達が、「目覚めるように」学んでいきましょう。

待降節が始まったということは、もう4週間後にはクリスマスが来てしまいます。救い主が来たと祝うのに、また来るとはどういうことでしょうか。

これはイエス様が人の形をとってこの世においでになり、死と復活をもって「良い知らせ」を私達に下さったあと天に戻られました。そののちに今の私達がいます。そしていつであるかはわかりませんが、この世がすべて終わる時に、イエス様は再び来られるのです。イエス様は決して私達を裁く怖い裁判官のような方ではなく、私達を喜んで迎えに来てくれる方です。ですから、その「いついらっしゃるかわからない」イエス様の再臨にそなえて、私達は常に目覚めていなければならないのです。

3週間前、いつ来るかわからない花婿を待つ乙女達が、うっかり灯の油を切らしてしまうたとえ話が読まれました(マタイ25,1-13)。日常の暮らしに流され、信仰や隣人愛といった心の油を切らし、暗闇の中で惰眠を貪ってはいけません、という警句でした。今日読まれた聖書も、日々の暮らしの中で、一歩進んでイエスの良い知らせとは何か、探さなければならないことを言っています。

現実を振り返れば、欧州ではコロナ禍がぶり返し、多くの人々が狭い環境に閉じ込められ、生活困窮者が増えています。日本においても同じ苦しみにあっている人が数多くいます。このような中からどのような解放をえられるでしょうか。

「目を覚ましていなさい」とは、私達は生きている限り毎日、チャンスがあるということです。

毎日、少しばかりの時間をとって、聖書を読む、祈る、瞑想するということを行いましょう。自分を見つめ、自分を認める訓練をしてみてください。

私は、いつ、どうなるなどという、今までいろいろな大きな計画を立てていた方々の中には、それらが今や大きく変わってしまったこともあるかもしれません。

しかし、大きな計画を立てられなくても、心の中で小さな目標を立てることができます。毎日、なんらかの形で「イエス様と出会う」そして「兄弟を助ける」ことはできます。そしてそのことにより、自分という人間を成長させることができます。

物質的には、今までどおりの日常生活に戻れないことがあるかもしれませんが、一人一人、自分自身の解放のために、自分のできる小さなことをすることにより、イエス様のように大きくなれるのです。

この待降節にイエス様と出会うために、次の祈りを唱えてみましょう。

「神様、あなたを良く信じている私達は、まだまだ弱い存在です。どうか私達を強め、あなたが離れている、留守だと思ってしまう時にも、あなたを思い出せる力と忍耐力をお与え下さい。そして時間を大事にし、イエス様と兄弟と共に歩み続けることができますように。」

最後に、一年前教皇様が来日した際に私達に与えてくださった課題を想いおこしましょう。

・世の中での平和の道を拓けますように

・互いに深い憐みをもって人を迎えることができますように

・教会の中、兄弟同士がより深く、本音で話し合うことができますように

また、このコロナ禍の中、帰国することもかなわず社会の底辺にあって苦しむ異邦人を助けることができますように。

「主よ、あなたはわれらの父、私達は年度、あなたは陶工。私達は皆、あなたの御手のわざ。(イザヤ647)

2020年11月29日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

王であるキリスト(11月22日)の説教(テキスト)

今週は教会暦では一年の最後の週にあたります。

どうしても、昨年の今頃はこのようなコロナ禍を想像だにしていなかった、つらい一年であったと心が沈んでしまいます。働くこと、学ぶこと、そしてそれを計画することすら出来なくなり、あらゆる活動の自粛を続けているうちに、心身の健康を損なう方も出ています。そしてこれらは今世界中で起きていることなのです。

こうした中、つらい過去を振り返るよりも、待降節を迎えるにあたり、これからどのような心持ちで、神様を信じて困難に立ち向かっていくべきか考えたいと思います。

このひと月私達はマタイによる福音書で、「神の国」の在り方やそこに向かう道を見てきました。

今日読まれた部分(マタイ25-3146)では、人が死後「最後の審判」により厳しく裁かれると描かれています。しかしこれは、独裁者のような神から一方的に罰を受けるという意味ではなく、今、羊飼いであるイエス様が、羊のように、集団で戸惑いながら生きている私達に対して、合図を送っているという意味なのです。私達が目を開けるように、神の合図を送ってくれているのです。それは、安全で幸せな神の国へ向かう道を指し示しているのです。

それでは、人間が神の国に入る、一番短くて確実な道とは何でしょうか。

それは、他者・隣人との「出会い」です。

そのために、人は積極的に生きなければなりません。それでは、「隣人」とは何でしょうか、誰でしょうか。

今日の福音では、世で「最も小さい人」で「飢えている者、渇いている者、無宿の者、裸の者、病んでいる者、入牢している者」であり、が私達が訪ねるべき隣人(=神ご自身)であると明かされます。

神のいう「隣人」とは、私達の地縁血縁は関係なく、私達は「隣人」を選ぶことはできないのです。私達がその人を見て、足を止めて、その人を助けようとした時から、その人は「隣人」となります。

また、教皇様が最近では、もはや「人の為」とはおっしゃらず、「人と共に」という言い方に変えていることに気がつきましょう。上から目線で、劣っている者に施しを授ける、という態度ではないのです。

その隣人と共に、歩んだり対話を始めたりすることが、神の国への最短の道なのです。

祈りは重要ですが、祈りながら同時に隣人を助けるということです。空想の世界の中で、自分の為だけに神頼みをする、ではないのです。

パリに居た頃、3年ほどジプシーと一緒に活動をしたことがあります。子供達が学校へ受け入れてもらえなかったり、「共に歩む」と言っても非常に困難な活動でした。しかし、困っている時、もうだめだと思った時にでも、自立・回復できる最初のきっかけは、「誰かが気にかけてくれている」というものです。誰かから力をもらえれば、少しずつ立ち上がれる気持ちなれるもので、そのことが神が最も喜ぶことなのです。

来週から待降節が始まります。

大変だった今年一年を振り返り、これからも続く試練の時に、神と兄弟姉妹とより良く共に歩む方法を考えましょう。

2020年11月22日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第33主日(11月15日)の説教(テキスト)

今日読まれた福音は、先週から引き続き、マタイ25章にて示されているキリスト者の「心構え」についてのものです。

先週では、人を迎える心、「心の油」というべきものを準備している人と、それを忘れてしまった人についての話でした。

人を迎える心を忘れて生きてしまう人は、自分の人生は他人に代わって生きてもらえることができないことと同じように、後になって他人に助けてはもらえない、という厳しいものでした。今日のタラントのたとえ話も、同じように、全く妥協しないイエス様の厳しい姿がみられます。優しいイエス様のはずなのに、なぜこのように厳しいものなのでしょうか。その訳を見てみましょう。

まず、今日のたとえ話の概略をもう一度みてみましょう。

主人が長期間不在となるのにあたり、数人の召使に大金を預けます。数年後主人が戻った時に、リスクを恐れて預かったお金を運用せずに、額面どおりそのまま返却した召使が厳しく叱責され、追放されるというたとえ話です。

旅にでる人とは神そのもので、召使すなわち人類は、創世記にあるように神からすべてを任されています。神が人間から離れていることは、人間を見捨てていることではなく、人間に託している(全世界を人間に譲っている)ということなのです。そのために神は、動物と異なり、人間だけにこの世を管理する能力をお与えになりました。

残念ながら、多くの人間はこのことを理解できず、単に優勝劣敗の生存競争を拡大するのみで、自分自身のありのままの姿を正しく評価できないのです。本質的にはむなしい富貴・権勢・華美などに惑わされ、他人をうらやんだり、憎んだり、そして不満ばかりが増していきます。

これは今日読まれたたとえ話で、タラント(自分の命)を守ろうとするあまりに、かえってそれを失い、「泣きわめいて、歯ぎしりする」状態を意味しています。

イエス・キリストが伝える「良い知らせ」とは、「自分のように他者を愛すること」です。それができないのは、「自分が神に愛されている」ことや「自分が神の目には、非常に価値がある」ということ理解できていないからです。

今日読まれたたとえ話で、預かったタラントを増やすことができた召使は、神に愛されていることを実感し神を信頼することができたからこそ、神から与えられた財産を増やそうと努力できたのです。一方、増やすことをせず土に埋めてしまった召使は、本当のところは神を信頼しておらず、自分自身だけを守ることだけに終始した人、を意味しています。

この物語からは、二つの点が学べると思います。

まず、私たちは皆、「神の姿」をもう一度はっきりイメージする必要があります。神は全ての人の幸せを強く願っています。私たちは他人の幸せのために働いているでしょうか。人を見下したり、無視したり、避けたりはしていないでしょうか。

そして、私たちが生きるということの目的は何でしょうか。ヨハネは「生きるということは、実を結ぶこと」と言っています。リスクをとって、他者に手を差し伸べることが生きることなのです。

2020年11月15日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第32主日(11月8日)の説教(テキスト)

最初に、七五三おめでとうございます。

子供たちの皆さんは、お家でお祝いをしましたか? 寂しいことにフランスには七五三はありません。

さて、子供のみんなは友達が家に遊びに来るときは何をしますか?

お母さんにケーキを作ってもらったり、部屋をかたづけたり、いっしょに遊ぶゲームの準備をしたりするのでしょう。

イエス様を信じる私たちも同じです。イエス様はいつか再びやってきますので、そのための準備をしなければなりません。

この世の終わりを「終末」と言いますが、その時にイエス・キリストは再びこの世に来られますので、そのために準備をするのです。

今日の福音(マタイ251-13)は、花婿を待つ10人の乙女の話でした。5人は賢く、しっかり準備していたので夜遅く訪れた花婿を迎えることができましたが、ほかの5人はおろかで準備をしていなかったので、灯りをともす油が無くて、迎えることができませんでした。

この「賢い」「おろか」という意味は、決して頭が良いということではなく、神様をしっかり信じて準備をするか、そうでないかという意味です。

優しい皆さんは、準備してきた乙女たちはなぜ油を困っている乙女たちに貸してあげなかったのかと思ったことでしょう。

それは、これはイエス様を迎える心の準備というものは、決して他の人に代わってやってもらえるものではなく、自分がやらなければならないことだからです。ちょうど自分の人生は、自分自身でしか生きることができないことと同じです。

今日の福音のポイントは、私たちキリスト信者が成長するためには、「忠実」(イエス様にしっかり従うこと)と「忍耐」(がまん強くなること)が大切だと言っています。

私たちは疲れて眠ってしまった「おろかな娘たち」と同じように、イエスを待ちくたびれて、休むことしかできない時があります。そのような時にでも、油(信仰:イエス様を信じること)が無ければ、心の灯をともし続けることはできません。夜が訪れても、信仰の油が切れないようにしましょう。

「わたしを遣わしたかたのわざを、わたしたちは日のあるうちに行わなければならない。誰も働くことのできない夜が来る。わたしはこの世にいる間、世の光である」(ヨハネ9-4

誰でもイエス様と出会う時に、心が改まり(回心)、情熱が入ります。しかしその後、長くキリスト信者として歩み続けるためには忍耐が必要とされるのです。

「言葉を聞いて実行する者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に例えられる。」(マタイ7-24

私たちは、「マラナタ、主よ、来てください」と歌います。

主が再び来られるとき、それはいつであるかはわかりませんが、「最後まで、耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24-13)のです。

 

2020年11月8日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

諸聖人(11月1日)の説教(テキスト)

今日は諸聖人のお祝いの日ですが、この祝いの趣旨は教会の発展に伴って、時代と共に変わってきました。

4世紀までは、イエス・キリストの後に従って信仰を証し、その結果天に召された数多くの殉教者たちを記念する日でした。教会の誕生以来、迫害されながらも布教に命をかけてきた兄弟たちの生き方は、まかれた種のように一人一人の心に信者の模範として芽生えてくるのです。

その後9世紀に、教会が分断された時代を通り抜けて、神の国の発展のために苦労を重ね、神と人へと愛を生きた無数の人々がいることを知るために、諸聖人の祝いと名づけられました。

さらに11世紀に修道会の活動が盛んになると、諸聖人と一般的な死者を記念し、祈りをささげる日となりました。

この祈るということは、どのような意味でしょうか。

特に、この春から今日に至るまで依然として、コロナウィルスの人質となっている私たちは何をすれば良いのでしょうか。

わたくしは、まず心を一つにして、天の父に向って祈ることが大切であると思います。

教皇フランシスコは、よく次のように語っています。

「パンデミックの時こそ、祈ることは大切です」、

「天の父との対話になり、魂の呼吸になる」、

「祈りとは、神のいつくしみのまなざしの前に身を置くことです」、と。

長い間、教会に以前のように集うことができず、日常生活のリズムを失い、人と人との「つながり」が弱くなっています。今まで目の前に輝いていた光が消えたような気持ちになっている方もおられると思います。

このような時こそ、適当な場所で時間をとって、ありのままの姿で、我々の弱さ、もろさを神にさらして、神に祈りましょう。

母の手のひらに包まれている幼子のように祈り続ける、そして謙遜な心で、すべての五感を使って神の声を聴きましょう。

布教活動をしていたイエスが口癖のように言っていた言葉、「小さな群れよ、恐れるな」を思い出しましょう。どんなことがあっても、現状を冷静に見なさいというイエスの言葉は、私たちの励みとなります。パウロが困っているフィリピ人へあてた手紙では、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように祈ります。」と言っています。

今日読まれた福音(マタイ5-1)では、キリスト者の目標と神のご加護が明確に示されています。

今現在、苦しみ涙を流しつつ歩みを続ける私たちに、神は明確に天の国を約束してくださっています。

飢えた状態から歩みだし、工夫し助け合い、神の国へ向かいましょう。毎日の生活の中で重荷を負っている人は、世俗の価値観という余分な荷を下ろし、イエスの言う「心の貧しい人」となりましょう。

時代を超えて、天の国に戻られたイエスと、地上に残されている私たちとは固い絆で結ばれています。そして信仰宣言の中で「聖徒の交わり」と言われているとおり、この世の信徒そして先に天に召された者とも目に見えない連帯の鎖でつながれています。イエスと共に神の神殿に住む先に召された人々を思い起こし彼らのために祈ることで、現世に生きている私たちは、互いに力を合わせ、人を大切に思うことができるのです。

2020年11月1日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者