年間第2主日(1月17日)の説教

今日のミサで読まれたサムエル記と、ヨハネによる福音書には、共通するテーマがあります。

それは「主の召し出しと信仰する人」の物語です。

サムエルがいた紀元前11世紀ごろ、ユダヤ人と神と交わされた契約が入った「契約の箱」はエルサレムの北、シロという神殿に安置されていました。

見習いの若い神官サムエルは、エリという祭司のもとで修業していました。ある夜、エリが休んでいたころ、サムエルは「契約の箱」の傍で寝ていました。そして3回ほど、神に呼ばれるのです。

「サムエル、サムエル」と。

1回目と2回目は、祭司エリに呼ばれているとサムエルは思いました。しかし3回目には、先輩のエリが、サムエルを呼んでいるのは神であるということに気づきました。そしてサムエルに、呼んでくれる神にしっかり答えるように、すなわち「主よお話しください、私は聞いております」と言いなさいと、アドバイスしたのです。

未経験であったサムエルは、聞いた声は神のものだったと知り驚きましたが、ベテランのエリの助けを得て自信を持ちます。そしてその時より、神に呼ばれたらその声(神)に従って預言者の道を歩む決心をしたのです。

さて、私たちが祈るときには、どのようにしたら良いのでしょうか。私たちは、自分自身のことについてよく迷っていますので、それらについて願い事や、感謝だけをすれば良いのでしょうか。

若いサムエルは自分の名前が呼ばれたときに、エリの助けによって、「主よお話ください。私は聞いています。」と答えました。

イスラエルでは、聞くという言葉は、「シェーマ」という動詞を使います。「シェーマ」とは人の話を聞いて従う、という意味があります。「シェーマ、イスラエル」という申命記の有名な箇所があります。律法の基本になるモーゼの十戒が申命記の5章に見られます。これはヘブライ人の信仰告白になります。

サムエルのように、ヘブライ人の子供は小さい時から神に向かって祈ることを覚えさせられます。そして、人間になろうという成長の段階で、将来その身につけた体験が芽生えて一人一人の信仰の誕生を迎えることができます。信仰とは、神から与えられる贈り物ですので、名前が呼ばれたら、神に選ばれているという印になります。

自分の内面で奥深く探し求めているものがそこにはありますし、その一方、私たちが知らない、神がわたしたちのために考えているものもあります。両方がぴったり合えば、生きる道が開かれます。生きる使命になります。

ヨハネの箇所には、弟子たちの召し出しが行われます。洗礼者ヨハネが自分の弟子たちにイエスを紹介します。当時弟子たちとって、「神の子羊」の名は、救い主であるイエスと出会えば、将来自分たちの歩む道が必ず開かれる、という大きいな希望でした。

信じる者になることは、「知識人になる」「真理をもとめている」ことだけではなく、歩むべき道を探し求めてゆくという厳しいことになります。

イエスの呼びかけは、そういう形で、「何を求めているのか?」と意識的に質問の形をとっています。自分だけでは見つけられていない不足しているものを、希望をもって、他者との出会いによって見つけて行くのです。

啐啄同時(そったくどうじ)という日本語がありますが、鳥の雛が卵から産まれ出ようと殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをすることをいうそうです。弟子を選んだキリストが、ついておいでと声をかけて、弟子を召し出された時というのは、雛鳥が殻を割って、親鳥と生まれて初めて親と触れ合う時です。まさに 啐啄同時です。

同じように、私たちが祈る時も、自分のおしゃべりや願いだけでなく、神からの希望・メッセージを聞き取ろうとする努力があって、神の存在を実感できるのです。そして、本当の自分に出会え、人間としての成長ができるのです。

2021年1月17日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者