年間第3主日(1月24日)の説教(テキスト)

おはようございます。

今日は『悔い改めて福音を信じる』という、イエスの招きに応えて人生を歩むうえで、信じるというだけでなく自らを改めていくということについて考えたいと思います。

第一朗読(ヨナ3-1~10)では、ヨナとニネベの都の人々について語られました。神にも人にも愛されていたヨナは頑固な性格な人でもありました。そのヨナが、金儲けと戦争の話ばかりをする敵国ニネベの都へ、人々に悔い改めよと伝えるように、神から召し出されました。その役割を嫌がったヨナは、反対方向へ逃走しようと船に乗りますが、その船は大嵐に巻き込まれます。これは神の祟りと恐れた船乗り達はヨナを海中に放り込んでしまいますが、ヨナは大魚に飲み込まれ、三日三晩を過ごしたのちに吐き出され、海岸に打ち上げられます(このヨナの冒険談は、日曜学校で子供たちのほうがよく知っていることでしょう。)

このヨナ書のポイントは、ヨナが自分の過ちを認め勇気をもって敵国ニネベに乗り込んでいったこと、そして意外にもニネベの人々が自分たちの過ちに気づき、悔い改めて償いを行ったこと、そしてそれによりニネベは神から許されてしまうことです。 死を覚悟して「このままでは40日後にこの都は滅ぼされる、皆罰をうける」と叫んでいたヨナは、罪深い人たちがあっさり許されてしまったことに納得がいきません。

しかし今日読まれた詩編25章にあるように、「神はあわれみ深く正義に道、罪びとに道を示される。神は貧しい人を正義に導き、へりくだる人にその道を教えられる。神を恐れるひとに神は心を開き、契約を示し、諭される」のです。 非ユダヤのアッシリア人、「罪深い」異邦人のニネベの人々が、素直に悔い改め神からの許しを得たのに対し、正しい信仰を持っているはずのヨナの方が神の愛を理解できず、異邦人への偏見を捨てきれず、その後も神との関係に苦労するという、含蓄のある教えです。

今日読まれた福音書(マルコ1-14)を見てみましょう。 洗礼者ヨハネが逮捕されてから、イエスは「神の良い知らせ」を伝えるために、北イスラエルのガリラヤに向かいました。ガリラヤはその地方の十字路と呼ばれ、ユダヤ人以外に多様な民族が住んでいました。そのことよりエルサレムの民衆よりも、神の愛の計画に参加するために、積極的にイエスを受け入れる予想があったのです。

その途中ゲネザレ湖畔で、弟子(協力者)を探し求めているイエスと、彼の後をついていこう決意する弟子たちの姿が今日の福音で語られます。彼らの求める幸せとは何であったか、を考えます。 神の子であるイエスは、どんな魅力をもって、すでに土地に根付き、家族と伝統を愛し大切にしていた人々に、それらを捨ててついてくるように呼び掛けたのでしょうか。またイエスの後について行く漁師たちには、どのようなモチベーションが働いていたのでしょうか。

イエスの「私についてきなさい、魚ではなく、人間をとる漁師にしよう」という言葉の中に、今まで果たせなかった夢を弟子たちが見つけたのかもしれません。そしてイエスのまなざしと言葉から出てくる影響力によって、その夢を追い求める勇気が与えられたのだと思います。イエスとの出会いとその影響力により、強い改心・回心が行われたのです。ゲネザレ湖畔の漁師達が探し求めていた道が、イエスの一言で開かれてしまいました。

この大きな転換の裏には、キリストの後へついて行けば、今までの人生で大切にしてきたものよりも大きなものがあり、それはどんなことがあってもなくならないもの、永遠に残るものであると気がついたことがあります。

さて、灰の水曜日、四旬節が始まるまであと三週間となりました。 四旬節の儀式は、今日考えさせられた言葉で始まるものでもあります。 「悔い改めよう(改心して)、天の国は近づいて(福音を信じなさい)」。

この「悔い改め」(ギリシア語:メタノイア)とは、単なる内面的な性質の変化ではなく、人生の完全な転向を意味します。神の助けを要する一方で、人の側もまた倫理的にふるまうことを求められるほどに、大きな方向転換という意味です。今までの努力が無駄であったということではなく、改めて、我々はもっと人間になろうではないか、という挑戦です。

2021年1月24日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者