年間第4主日(1月31日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書は、先週に引き続き、イエスがガリラヤ湖畔で弟子にした四人を連れて布教活動を始めた時の物語です。

まず気づくことは、イエスは大衆の中によく入りこんで教えを説き、人々もまたそれを熱狂的に受け入れたということです。ユダヤ人が土曜日に集まっていた公会堂、湖畔、あるいは山の上など、さまざまな場所でイエスは教えを説き、多くの人々の心を掴みました。このようなことの背景には何があったのか、皆様と一緒に見てみたいと思います。

この時期に行われたイエスの説教は、人々の心を奪い魅了するものであったと言われていますが、実際の内容については伝えられていません。

マルコはイエスの直接の弟子ではありませんでしたが、イエスの死後ペトロとパウロから聞き取ったものを、イエスの死後30年ほどでまとめました。一昨年皆さんと共に読んだルカによる福音書は、医師ルカの細かな記述が目立ち、昨年読まれたマタイによる福音書は、おしゃべり好きなマタイによる生き生きとした情景が印象的でした。では四大福音書のなかで最も短いマルコによる福音書は、何が特徴でしょうか。マルコは、イエスの死後30年の間、残された弟子と信者たちが鮮明に覚えていたイエスの記憶を聞き取り、その中から大事なものを選りすぐって書きました。

このマルコ22節では、「その時人々はイエスの教えを聞き、権威ある新しい教えだ、と驚いた」と書かれています。この権威とはどのようなものでしょうか。

権威のイメージとしては、仏教の大きな仏像が思い浮かびます。仏像には表情やポーズについて一定の決まりがあり、それに基づいて仏像が製作されています。それではイエスのイメージとはどのようなものでしょうか。イエスの顔については何も伝えられていませんので分かりませんが、

私の個人的なイメージでは、右手には経典(聖書)を持ち、左手は人々に向かって手を掲げている、というものです。この左手は指先は天に向かって天の父と私たちの間を結ぶ、そして手のひらは私たちに向かって私たちに働きかけています。今日読まれたマルコによる福音書の箇所も、まず人々に聖書の話をした後に、実際の行動として悪霊を追い払うという、二つの行いがなされました。

この聖書の言葉だけではなく、行いが必ずついてくるというところが、イエスご自身およびその後弟子たちが伝えていくキリストの教えの中核にあります。

イエスは自分の言いたいことを伝えるのではなく、相手がイエスの考えを理解し、自分自身でその考え・行動を改めることを望んでおられました。そのために、聖書はしっかりと右手に持ちつつ、左手では神とつながって人々に作用する、ということをなさいました。一方、律法学者達は、経典(旧約聖書)をふりかざすが、神とも人々ともつながっていない、自分たちの権力のために神の権威を用いていると、イエスは非難されたのです。

イエスにとって、神の言葉や聖書とは、人々を救うための大事な道具でしたが、目的ではありませんでした。人々を救い、真の人間らしい生き方を送らせるためのものでした。そのようなイエスの目からは、神の言葉を用いて自分自身を飾り、庶民を見下し関わろうとしなかった律法学者は、否定されるべきものだったのです。

弱い者を非難したり支配するのではなく、再び自分で立ち上がれるように励ましたり助けたりする、少なくとも関わろうとする、このようなイエスの姿を今日の福音は描いています。

悪霊は「かまわないでくれ、正体はわかっている、神の聖者だ」、つまりイエスが聖者であることは認めるので、他の律法学者同様、その男に関わらないよう叫びました。それに対しイエスは悪霊を叱り、言葉だけではなく、実際に不思議な力の行為として悪霊を手で追い払われたのです。

よく聖書に出てくるイエスによる「癒し」、言葉としてはよく目にしますが、このように言葉だけでなく必ず深い関わりと行為が伴ったもの、と理解すると少しずつ実態が見えてきます。

これをさらに理解するために、最近コロナ禍で得た時間を用いて、ローマ帝国崩壊後の5~7世紀のキリスト教の古典を読んでいます。この時代、多くの教父たちは荒れ野や洞窟に隠遁し、イエスの教えを学び解釈しようとしていました。

その中で、この「イエスによる悪霊の除霊」につながる興味深い解釈の一つに、例えで言うと、「人間とは、(ハンバーガーのように)パンにはさまれた肉のようなもの」というものがありました。ハンバーグが人間自身の魂、下側のパンが人間の肉体、上側のパンが霊、つまり肉体と霊により魂が包み込まれた状態、という解釈でありました。この霊の部分は欲望に負けて悪霊につけこまれたりする一方、信仰により神と繋がったりすることができるものです。下のパンは物理的・肉体的に自分以外の人々や社会とコミュニケーションをとる一方、上のパンでは深い気持ちや感情のやり取りを行うもの、この双方が自分の魂に影響するという考えです。

このように考えると、悪霊に取りつかれた、すなわち絶望と不信により深い気持ちや感情のやり取りができなくなった人々であっても、それはイエスからの右手と左手の力によって癒されるということを示しています。

私たちも、この話から何かを汲み取り、日々の生活への希望と指針にできればと思います。

2021年1月31日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者