主任司祭からのご挨拶 〜坂の上の心癒される保土ヶ谷教会に来て見ませんか~

この度、保土ヶ谷教会に主任司祭として着任しましたパウロ ハー・ミン・トゥ神父です。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、私たちが生きている今はグローバル化の著しい世界です。その中で、世界は小さく近く感じられ、無いものはないといわれるほど様々なものが溢れているのではないでしょうか。しかし、本当に向うべき場所は遠くなり、今必要なものは足りなくなっているのです。このことについては、1965年に行われた第2バチカン公会議「公文書全集」の「現代世界憲章」第4項に「人類がこれほどの富と可能性と経済力に恵まれたことは、けっしてなかったが、他方では、今もなお地球上の住民の膨大な部分が飢えと欠乏に苦しめられ、無数の人が読み書きを知らない…世界が一つに結ばれていることと、各自が必然的連帯性に基づいて相互に従属関係にあることについては強く感じているが、他方、世界は相戦う力の対立によって引きさかれている」と既に記されています。
今を生きている私たちは、様々なプレッシャーとストレスにさらされています。更にそれらが解消されることはなく溜まっていくばかりでしょう。経済不況や社会不安によって日々の生活はますます厳しくなり、生きるために競争を強いられて、一所懸命生きていても将来の方向性も見えない状況です。自然災害の脅威は世界中にあり、その上、現在はコロナウイルスという想定外のものにも悩まされ続けています。心が不安で一杯になり、平安を程遠く感じている方も多いのではないでしょうか。

しかし、私たちはやはり希望を持って前を向いて進んでいきたいと思っています。その為には自分を信じ、自分を造ってくださった神を信じて生きていきましょう。「信じる」ことは生きる大前提として求められます。その思いを一層強めていかないと、様々なことに押しつぶされてしまうのではないでしょうか。

私たちは今、様々な形で飢え渇いています。情報は溢れるほどたくさんありますが、飢え渇いているあなたは何を信じますか。また、行くところはたくさんありますが、飢え渇いているあなたは、どこに行きますか。勿論様々な解決法があるでしょう。しかし、残念なことに、この世的なもので解決しようとするなら、一時的にしか癒してもらえません。つまり、解決できたように思えても、根本的な解決ではないのです。

ヨハネ福音書には「私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じるものは決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)というイエスの言葉が記されています。「信じること」と「来ること」は別々のものではなく、一つの同じことを意味しています。「信じること」は「イエスのところに来ること」です。情報が溢れる中で、折角「私のもとに来るものは」とイエスから呼びかけられているのですから「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)という言葉を信じてみませんか。よろしかったら、また教会のサイトを覗いてみてください。そして、坂の上の心癒される保土ヶ谷教会に来て、ちょっと入ってみませんか。喜んでお待ちしております。

巻頭言 主のご復活おめでとうございます 

小教区管理者 アウグスティヌス 水上健次神父

この復活祭後に逗子教会と三浦海岸教会に異動になります。昨年司祭叙階直後に保土ヶ谷教会に着任したのが、つい昨日のような感覚です。短くも、内容の濃かった一年間であったことは間違い有りません。当たり前ですが神父は叙階後に神父になります。ミサ聖祭、結婚式やご葬儀、納骨式など、何をするにも初めてです。信徒の皆さんにはその度に助けて頂き、本当に感謝しております。神学生時代も祈りは毎日欠かさず行なってきましたが、司祭になった今ほど、聖霊に助けを求めている時は有りません。そして聖霊は必ず来て助けてくださいます。そのことを実感した一年であったと振り返って思っております。
保土ヶ谷教会では小教区管理者という職責でしたので、組織改革などは行いませんでしたが、着任に当たり、信徒の皆さんには3つのことをお願いしました。一つは、奉仕は喜びの中で行うこと。二つ目は、どんな会議も一時間以内に終わらせること。最後にミサを全ての頂点にすること。この三つをお願いし、皆さんには本当によく協力していただいたこと、感謝致します。
神父は役務的祭司職と呼ばれます。ミサの挙行、秘跡の実行など、個別の職務が与えられており、ミサの次に大切にしていたのが、病者訪問でした。身体の具合など様々な理由で教会に来られない方にお会いするのが、毎月とても楽しみで、それも喜んでくださるのが嬉しくて、神父になって本当に良かったと思うひと時でした。ご聖体をいただくこと。キリストと一つになることが、こんなにも大切なことなのだと、お会いする皆さんに教えていただいたこと、感謝しかありません。これからも共に主の道を歩んで行きましょう。
保土ヶ谷教会という場所を借りて行う子供食堂の立ち上げも、とても良い経験になりました。スタッフの皆さんの熱意が毎回伝わって来て、ああ今ここに神様がいるなと、いつも感じていました。その仲間に入れていただいたこと、嬉しく思っています。子共達の笑顔と共に、地域の皆さんとの交流という意味でも継続できるようにお祈りしています。
復活祭は全世界でお祝いをする日です。でも春は同時にお別れの季節でもあります。最初の赴任地が保土ヶ谷教会で本当に良かったです。いつも優しくしてくださって感謝です。逗子教会にも来てください。ビーチサンダルを忘れずに。お世話になりました。ありがとうございます。
主イエスよ、来てください。(黙示録22.20)

2023年4月18日 | カテゴリー : メッセージ, 説教 | 投稿者 : 保土ヶ谷カトリック教会広報委員

今日、あなたがたのために、救い主が生まれた

小教区管理者 アウグスティヌス 水上健次神父

主のご降誕おめでとうございます。クリスマスは世界で一番有名な誰でも知っているイエス・キリストの誕生日です。普段、無宗教を自認する日本人でさえも、クリスマスを迎える待降節になると気持ちがたかぶってきます。街ではボーナスを当て込んだクリスマス商戦が活発になり、経済に活気が出てきます。日本中がお祝いモードに入り、街ゆく人々も明るく笑顔になってくるように感じます。皆さんはどのようにクリスマスを迎え、お祝いをしますか。教会で主の降誕ミサに参列し、共に喜び祝い、家族や友人とご馳走やケーキを食べたり、お互いにプレゼントを交換しあったり、また、普段会えない方から頂いたクリスマスカードを読んだりしてお祝いする方が多いことと思います。争いのある所でさえ、クリスマス休戦協定が引かれ、全世界がキリストの誕生を喜び祝う日、それがクリスマスです。

二千年前、神の子としてお生まれになったイエスは、誰よりも小さい者としてこの世に生を受けられました。イエスは私たち人間の救いのために、罪が無いのに死ぬことが定められていました。そして、罪が無いのにも関わらず、ヨルダン川で洗礼者ヨハネより洗礼を受けられました。それは誰よりもへりくだり、小さな者として生まれ、私たちのために死んでくださる方だからです。また、イエスは全ての人を救うために生まれて来こられる神なのに、それにふさわしい場所が煌(きら)びやかな王宮ではなく、ベツレヘムというダビデの町で、宿を取ることも出来なかったヨセフとマリアによって、粗末な馬小屋の飼葉桶の中で、星明りに照らされながら、ひっそり静かにお生まれになるのです。こんなにも
小さく幼い乳飲み子こそが、私たちが待ち望んでいたメシアなのです。

マリアの子イエスという一人の人間が、神であるということを私たちは信じています。それは全能、永遠の神が人間になられたということです。自分を無にし、与え尽くして死んで行くイエスの生涯において、ご自身を表す神、それは偉大な神です。神ご自身が無限の神でありながら、同時にご自分の被造物になられるという意味は、どれだけ私たち人間を愛しておられるのかということに他なりません。私たちを無条件に愛して下さる神、愛するひとり子を世に送られた神の計り知れない大きさに、私たちには、ただただ感謝しか有りません。

誕生日は幾つになっても嬉しいものです。今年も一つ歳を重ねることが出来ることを両親に感謝する日です。私たちの主イエス・キリストの誕生日は、いつの時代も全世界の人達はイエスがこの世に生まれて来てくださったことを喜び、感謝をする日です。そして神の母聖マリアと聖ヨセフに感謝し、全ての人を救われるイエス・キリストを与えてくださった父である神に感謝をする日なのです。

恵みに満ちた方

8 月 15 日の聖母被昇天の祝日は全世界でお祝いをします。
日頃マリア様を大切にしている皆さんは、神の母聖マリアにどのような思いを抱いていますでしょうか。

聖母被昇天とはマリアの特権ではなく、第一人者、さきがけとしてキリスト者全体の繋がりを意味しており、無原罪ということ、それは罪が無いということよりも、恵みに満たされた方であるとの意味合いが込められていること、罪とは神から離れている状態のことであり、その逆であるマリアは恵みに満ち溢れていることを心に留めておきましょう。

カトリック教会のカテキズムでは、罪の無いキリストが生まれるためには、罪の無いマリアから生まれる必要があると説明しています(492 番)。また、聖イレネオは「マリアは従順によって、エバの不従順のもつれが解かれ、エバの不信仰によって縛ったものを、マリアが信仰によって解かれます。マリアとエバは対比され、生ける者の母と呼ばれ、エバによって死が、マリアによっていのちがもたらされた」と語っています。

使徒的勧告『福音の喜び』の中で教皇フランシスコは「粗末な布とあふれるほどの優しさをもって、動物の岩屋をイエスの家へと変えることができるかたです。賛美のうちに喜びに打ち震える、御父のはしためです。わたしたちの生活に葡萄酒が足りなくなることのないよう、つねに気を配る友です。心を剣で刺し貫かれたかた、あらゆる苦しみを理解されるかた」(286 番)であると、マリアをたたえています。

神学院では叙階が近づくと「マリア論」の講義を受けます。カトリックにおけるマリアの教えとしては、第二バチカン公会議教会憲章のマリアに関する第 8 章「キリストと教会の神秘の中の神の母、聖なる処女(おとめ)マリアについて」を理解することに尽きますが、マリア論の講師であった幸田司教様は、最後の講義の中で「『マリアは私たちと一番近いところで祈ってくれている。天に昇って、神と一番近いところで祈ってくれている』ということをこれからの信仰生活の中で大切にしてください。」と強調されました。いつも神への取り次ぎを願うマリアへの感謝の気持ちを忘れないでいたいものです。

恵みに満ちた方

小教区管理者 アウグスティヌス 水上健次神父

小教区管理者からのご挨拶 〜ようこそ保土ヶ谷教会へ〜

司祭の水上健次(みずかみけんじ)です。2022年4月18日付けで保土ヶ谷カトリック教会の小教区管理者として着任しました。保土ヶ谷の高台にあるこの教会は、季節の花が咲き、子供や大人が憩う広い公園が近隣にある、とても環境の良い場所に建っています。保土ヶ谷教会で毎週皆様と共にミサを捧げられることを何よりも嬉しく思います。どうぞお気軽にお声をかけてください。よろしくお願い致します。

成人洗礼の私は、カトリック教会とは大人になってからの付き合いです。教会に来る時期は人それぞれでしょう。早い遅いといったことを気にすることは有りません。教会とは神によって呼び集められた人たちの集まりのことです。神の名のもとに集まったところに、神はおられます。それが教会です。わたしたちは神に呼び集められているのですから、皆等しく神の子です。教会では社会で使われている貧富の差による上下関係や、社会的地位を表す肩書きなどは意味を成しません。皆が対等なのです。ここに集う私たちは、神の良い知らせを告げ知らせるために集っているのです。

人生の中で、神に出会った人は幸せです。そしてその幸せをまだキリストに出会っていない人に伝えていくのが私たちの宣教です。キリスト教は、弱い人、社会から小さく扱われている人たちのために開かれています。自分の幸せを求めるだけではなく、困っている人、社会的に弱い人、病に伏せっている人たちのために祈る宗教なのです。

この保土ヶ谷カトリック教会がそのような主イエス・キリストのみ心にかなう教会であることを、どうぞ来て、見て、感じてください。ようこそ保土ヶ谷カトリック教会へ。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11.28)