年間第4主日(1月31日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書は、先週に引き続き、イエスがガリラヤ湖畔で弟子にした四人を連れて布教活動を始めた時の物語です。

まず気づくことは、イエスは大衆の中によく入りこんで教えを説き、人々もまたそれを熱狂的に受け入れたということです。ユダヤ人が土曜日に集まっていた公会堂、湖畔、あるいは山の上など、さまざまな場所でイエスは教えを説き、多くの人々の心を掴みました。このようなことの背景には何があったのか、皆様と一緒に見てみたいと思います。

この時期に行われたイエスの説教は、人々の心を奪い魅了するものであったと言われていますが、実際の内容については伝えられていません。

マルコはイエスの直接の弟子ではありませんでしたが、イエスの死後ペトロとパウロから聞き取ったものを、イエスの死後30年ほどでまとめました。一昨年皆さんと共に読んだルカによる福音書は、医師ルカの細かな記述が目立ち、昨年読まれたマタイによる福音書は、おしゃべり好きなマタイによる生き生きとした情景が印象的でした。では四大福音書のなかで最も短いマルコによる福音書は、何が特徴でしょうか。マルコは、イエスの死後30年の間、残された弟子と信者たちが鮮明に覚えていたイエスの記憶を聞き取り、その中から大事なものを選りすぐって書きました。

このマルコ22節では、「その時人々はイエスの教えを聞き、権威ある新しい教えだ、と驚いた」と書かれています。この権威とはどのようなものでしょうか。

権威のイメージとしては、仏教の大きな仏像が思い浮かびます。仏像には表情やポーズについて一定の決まりがあり、それに基づいて仏像が製作されています。それではイエスのイメージとはどのようなものでしょうか。イエスの顔については何も伝えられていませんので分かりませんが、

私の個人的なイメージでは、右手には経典(聖書)を持ち、左手は人々に向かって手を掲げている、というものです。この左手は指先は天に向かって天の父と私たちの間を結ぶ、そして手のひらは私たちに向かって私たちに働きかけています。今日読まれたマルコによる福音書の箇所も、まず人々に聖書の話をした後に、実際の行動として悪霊を追い払うという、二つの行いがなされました。

この聖書の言葉だけではなく、行いが必ずついてくるというところが、イエスご自身およびその後弟子たちが伝えていくキリストの教えの中核にあります。

イエスは自分の言いたいことを伝えるのではなく、相手がイエスの考えを理解し、自分自身でその考え・行動を改めることを望んでおられました。そのために、聖書はしっかりと右手に持ちつつ、左手では神とつながって人々に作用する、ということをなさいました。一方、律法学者達は、経典(旧約聖書)をふりかざすが、神とも人々ともつながっていない、自分たちの権力のために神の権威を用いていると、イエスは非難されたのです。

イエスにとって、神の言葉や聖書とは、人々を救うための大事な道具でしたが、目的ではありませんでした。人々を救い、真の人間らしい生き方を送らせるためのものでした。そのようなイエスの目からは、神の言葉を用いて自分自身を飾り、庶民を見下し関わろうとしなかった律法学者は、否定されるべきものだったのです。

弱い者を非難したり支配するのではなく、再び自分で立ち上がれるように励ましたり助けたりする、少なくとも関わろうとする、このようなイエスの姿を今日の福音は描いています。

悪霊は「かまわないでくれ、正体はわかっている、神の聖者だ」、つまりイエスが聖者であることは認めるので、他の律法学者同様、その男に関わらないよう叫びました。それに対しイエスは悪霊を叱り、言葉だけではなく、実際に不思議な力の行為として悪霊を手で追い払われたのです。

よく聖書に出てくるイエスによる「癒し」、言葉としてはよく目にしますが、このように言葉だけでなく必ず深い関わりと行為が伴ったもの、と理解すると少しずつ実態が見えてきます。

これをさらに理解するために、最近コロナ禍で得た時間を用いて、ローマ帝国崩壊後の5~7世紀のキリスト教の古典を読んでいます。この時代、多くの教父たちは荒れ野や洞窟に隠遁し、イエスの教えを学び解釈しようとしていました。

その中で、この「イエスによる悪霊の除霊」につながる興味深い解釈の一つに、例えで言うと、「人間とは、(ハンバーガーのように)パンにはさまれた肉のようなもの」というものがありました。ハンバーグが人間自身の魂、下側のパンが人間の肉体、上側のパンが霊、つまり肉体と霊により魂が包み込まれた状態、という解釈でありました。この霊の部分は欲望に負けて悪霊につけこまれたりする一方、信仰により神と繋がったりすることができるものです。下のパンは物理的・肉体的に自分以外の人々や社会とコミュニケーションをとる一方、上のパンでは深い気持ちや感情のやり取りを行うもの、この双方が自分の魂に影響するという考えです。

このように考えると、悪霊に取りつかれた、すなわち絶望と不信により深い気持ちや感情のやり取りができなくなった人々であっても、それはイエスからの右手と左手の力によって癒されるということを示しています。

私たちも、この話から何かを汲み取り、日々の生活への希望と指針にできればと思います。

2021年1月31日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第3主日(1月24日)の説教(テキスト)

おはようございます。

今日は『悔い改めて福音を信じる』という、イエスの招きに応えて人生を歩むうえで、信じるというだけでなく自らを改めていくということについて考えたいと思います。

第一朗読(ヨナ3-1~10)では、ヨナとニネベの都の人々について語られました。神にも人にも愛されていたヨナは頑固な性格な人でもありました。そのヨナが、金儲けと戦争の話ばかりをする敵国ニネベの都へ、人々に悔い改めよと伝えるように、神から召し出されました。その役割を嫌がったヨナは、反対方向へ逃走しようと船に乗りますが、その船は大嵐に巻き込まれます。これは神の祟りと恐れた船乗り達はヨナを海中に放り込んでしまいますが、ヨナは大魚に飲み込まれ、三日三晩を過ごしたのちに吐き出され、海岸に打ち上げられます(このヨナの冒険談は、日曜学校で子供たちのほうがよく知っていることでしょう。)

このヨナ書のポイントは、ヨナが自分の過ちを認め勇気をもって敵国ニネベに乗り込んでいったこと、そして意外にもニネベの人々が自分たちの過ちに気づき、悔い改めて償いを行ったこと、そしてそれによりニネベは神から許されてしまうことです。 死を覚悟して「このままでは40日後にこの都は滅ぼされる、皆罰をうける」と叫んでいたヨナは、罪深い人たちがあっさり許されてしまったことに納得がいきません。

しかし今日読まれた詩編25章にあるように、「神はあわれみ深く正義に道、罪びとに道を示される。神は貧しい人を正義に導き、へりくだる人にその道を教えられる。神を恐れるひとに神は心を開き、契約を示し、諭される」のです。 非ユダヤのアッシリア人、「罪深い」異邦人のニネベの人々が、素直に悔い改め神からの許しを得たのに対し、正しい信仰を持っているはずのヨナの方が神の愛を理解できず、異邦人への偏見を捨てきれず、その後も神との関係に苦労するという、含蓄のある教えです。

今日読まれた福音書(マルコ1-14)を見てみましょう。 洗礼者ヨハネが逮捕されてから、イエスは「神の良い知らせ」を伝えるために、北イスラエルのガリラヤに向かいました。ガリラヤはその地方の十字路と呼ばれ、ユダヤ人以外に多様な民族が住んでいました。そのことよりエルサレムの民衆よりも、神の愛の計画に参加するために、積極的にイエスを受け入れる予想があったのです。

その途中ゲネザレ湖畔で、弟子(協力者)を探し求めているイエスと、彼の後をついていこう決意する弟子たちの姿が今日の福音で語られます。彼らの求める幸せとは何であったか、を考えます。 神の子であるイエスは、どんな魅力をもって、すでに土地に根付き、家族と伝統を愛し大切にしていた人々に、それらを捨ててついてくるように呼び掛けたのでしょうか。またイエスの後について行く漁師たちには、どのようなモチベーションが働いていたのでしょうか。

イエスの「私についてきなさい、魚ではなく、人間をとる漁師にしよう」という言葉の中に、今まで果たせなかった夢を弟子たちが見つけたのかもしれません。そしてイエスのまなざしと言葉から出てくる影響力によって、その夢を追い求める勇気が与えられたのだと思います。イエスとの出会いとその影響力により、強い改心・回心が行われたのです。ゲネザレ湖畔の漁師達が探し求めていた道が、イエスの一言で開かれてしまいました。

この大きな転換の裏には、キリストの後へついて行けば、今までの人生で大切にしてきたものよりも大きなものがあり、それはどんなことがあってもなくならないもの、永遠に残るものであると気がついたことがあります。

さて、灰の水曜日、四旬節が始まるまであと三週間となりました。 四旬節の儀式は、今日考えさせられた言葉で始まるものでもあります。 「悔い改めよう(改心して)、天の国は近づいて(福音を信じなさい)」。

この「悔い改め」(ギリシア語:メタノイア)とは、単なる内面的な性質の変化ではなく、人生の完全な転向を意味します。神の助けを要する一方で、人の側もまた倫理的にふるまうことを求められるほどに、大きな方向転換という意味です。今までの努力が無駄であったということではなく、改めて、我々はもっと人間になろうではないか、という挑戦です。

2021年1月24日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第2主日(1月17日)の説教

今日のミサで読まれたサムエル記と、ヨハネによる福音書には、共通するテーマがあります。

それは「主の召し出しと信仰する人」の物語です。

サムエルがいた紀元前11世紀ごろ、ユダヤ人と神と交わされた契約が入った「契約の箱」はエルサレムの北、シロという神殿に安置されていました。

見習いの若い神官サムエルは、エリという祭司のもとで修業していました。ある夜、エリが休んでいたころ、サムエルは「契約の箱」の傍で寝ていました。そして3回ほど、神に呼ばれるのです。

「サムエル、サムエル」と。

1回目と2回目は、祭司エリに呼ばれているとサムエルは思いました。しかし3回目には、先輩のエリが、サムエルを呼んでいるのは神であるということに気づきました。そしてサムエルに、呼んでくれる神にしっかり答えるように、すなわち「主よお話しください、私は聞いております」と言いなさいと、アドバイスしたのです。

未経験であったサムエルは、聞いた声は神のものだったと知り驚きましたが、ベテランのエリの助けを得て自信を持ちます。そしてその時より、神に呼ばれたらその声(神)に従って預言者の道を歩む決心をしたのです。

さて、私たちが祈るときには、どのようにしたら良いのでしょうか。私たちは、自分自身のことについてよく迷っていますので、それらについて願い事や、感謝だけをすれば良いのでしょうか。

若いサムエルは自分の名前が呼ばれたときに、エリの助けによって、「主よお話ください。私は聞いています。」と答えました。

イスラエルでは、聞くという言葉は、「シェーマ」という動詞を使います。「シェーマ」とは人の話を聞いて従う、という意味があります。「シェーマ、イスラエル」という申命記の有名な箇所があります。律法の基本になるモーゼの十戒が申命記の5章に見られます。これはヘブライ人の信仰告白になります。

サムエルのように、ヘブライ人の子供は小さい時から神に向かって祈ることを覚えさせられます。そして、人間になろうという成長の段階で、将来その身につけた体験が芽生えて一人一人の信仰の誕生を迎えることができます。信仰とは、神から与えられる贈り物ですので、名前が呼ばれたら、神に選ばれているという印になります。

自分の内面で奥深く探し求めているものがそこにはありますし、その一方、私たちが知らない、神がわたしたちのために考えているものもあります。両方がぴったり合えば、生きる道が開かれます。生きる使命になります。

ヨハネの箇所には、弟子たちの召し出しが行われます。洗礼者ヨハネが自分の弟子たちにイエスを紹介します。当時弟子たちとって、「神の子羊」の名は、救い主であるイエスと出会えば、将来自分たちの歩む道が必ず開かれる、という大きいな希望でした。

信じる者になることは、「知識人になる」「真理をもとめている」ことだけではなく、歩むべき道を探し求めてゆくという厳しいことになります。

イエスの呼びかけは、そういう形で、「何を求めているのか?」と意識的に質問の形をとっています。自分だけでは見つけられていない不足しているものを、希望をもって、他者との出会いによって見つけて行くのです。

啐啄同時(そったくどうじ)という日本語がありますが、鳥の雛が卵から産まれ出ようと殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをすることをいうそうです。弟子を選んだキリストが、ついておいでと声をかけて、弟子を召し出された時というのは、雛鳥が殻を割って、親鳥と生まれて初めて親と触れ合う時です。まさに 啐啄同時です。

同じように、私たちが祈る時も、自分のおしゃべりや願いだけでなく、神からの希望・メッセージを聞き取ろうとする努力があって、神の存在を実感できるのです。そして、本当の自分に出会え、人間としての成長ができるのです。

2021年1月17日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

主の洗礼(1月10日)の説教(テキスト)

数日前にコロナ禍について「緊急事態宣言」という残念なニュースが届きました。しかしその一方、今日教会の典礼によって、良い知らせもあります。

今日は、成人となる若い兄弟とともに、イエス・キリストの洗礼を記念するミサを捧げます。

さて、イエス・キリストの洗礼を祝うとき、私たちは神様からいただいた次の三つの良い知らせを確認します。

1.去年のクリスマスの夜の知らせ

―神の子イエスが、天からこの地まできてくださり、無防備な赤ん坊の姿で現れました。

―神はこの世に住んでいる私たちと、共に歩むように決心されたのです。

―神を遠く離れた存在だと思い込んでいた私たちは、神をすぐそばにいる方として体験できるようになりました。

2.先週いただいた知らせ

―主の公現がありました。

―キリストがユダヤ人だけではなく、この世の全ての人々の救いと解放のために来られたことが明らかにされたのです。

3.そして今日の知らせ

―天上からいらしたキリストが、私たちの足下まで降りてくださり、洗礼を受けるためにヨルダン川の中に沈んでいったのです。

これはどのような意味を持つのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、原点に戻り神の前で悔い改めるために、人々に洗礼を授けていました。洗礼は英語ではバプタイズと言いますが、語源は沈む、浸すといったものです。イエスも洗礼者ヨハネの前で、ヨルダン川の中に沈み込みました。そして水の中にあってしばらく出ては来ませんでした。本当のところは、キリストは神ご自身であり洗礼を受ける必要はありませんでした。にも拘わらず、神ご自身が洗礼を受けたこと、すなわち人々と同じように呼吸が苦しくなるまで水の中につかっていたことは、私たちを助けるために、人と共に霊に生きるために、神がこの世に来た印(しるし)を意味します。

こんにち洗礼を受ける時には、額にわずかな水が注がれるだけですが、その時「父と子と聖霊によって洗礼を授けます」という言葉が述べられます。イエスがヨルダン川から出て岸へ上がった時も、天の父から「彼は私の愛する子、私の心にかなう者」との声がありました。洗礼を受ける私たちは「父と子と聖霊によって」神の心の深い交わりにより結ばれます。そしてこれは人間同士も仲良く交わるよう、神から招かれているのです。

初代教会の学者テルトゥリアヌスは「洗礼を受けたものはキリストの印が心に刻まれた者」と言っています。それは神に守られる一方、兄弟と共に生きるという責任を負うことでもあります。責任、英語でいうリスポンシビリティはリスポンス(答える)から来ています。私たちは神から与えられる問いに答えなければなりません。

現実の世界の中に生きる私たちは、大事な選択を行わなければなりません。それは富・権力・名誉のために他者を敵とする個人主義、利己主義が世の常識であるのに対し、キリストの生き方は小さくされた人々の側に立って彼らを優先し、人々と共に自分の十字架を背負って、解放の日(永遠の命)を目指すものであるからです。現代社会が今一番必要としていることは、バラバラに分裂した人々が、お互いが助け合い、連帯しあえるようになることです。一人ひとりを大切に思う心を育てるのは難しく、挑戦です。信仰は強制されるものではなく、神から与えられる贈り物です。

イエス・キリストに向かって祈ります。イエス様、あなたはヨルダン川から立ち上がった時、「天から神の霊が鳩のように下り」そして「『彼は私の愛する子』と父の声が聞こえる」ようになりました。成人を迎える私たちひとりひとり、そして今日のミサ参加者に豊かな祝福を送ってください。この世界の家の創造主である父と私たちと共に歩んでくれるキリストの平和、愛の交わり、正義の霊が私たちの心に豊かに注がれますように。

2021年1月10日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

主の公現(1月3日)の説教(テキスト)

人生の道を歩んでいく中で、目標を失うことはとても辛いことです。

昨年はそのような経験があったという気がします。朝早くおきること、一日の準備をすること、家から出て出発することなどが、難しくなってしまいました。 先のことが見えなくなってしまったので、不安を覚えるようになりました。

今日、マタイ福音書に紹介されている占星術の学者たちは、どのような人たちだったのでしょうか。

-彼らは間違いなく、出発する勇気がありました。

-彼らは開かれた心と、明確な真理を求める探求心がありました。

それでは、彼らは何を追求していたのでしょうか。彼らは、満足できなくなった日常生活からしばらく離れて、生きる意味を再び探し求めていたのです。命をかけるほど、新しい目標を求めていたのです。

「私たちは、東方の国でそのかたの星を見たので、拝みに来ました。」

長い間、星空の研究をしてきたおかげで、かれらはエルサレムまで来ることができました。そしてエルサレムに来ると星が止まり、星の導きが終わったことに驚きました。星空を追求する旅が終わり、科学的手段の限界を受け止めて、高いところから低い地上を捜索する作業に変わったのです。そして、ついに、飼い葉桶に寝かせてある赤ん坊を発見したのです。

占星術者たちの物語は、それぞれの思想、宗教を超えて、神を求めている人たちの物語です。地上の日常生活から離れたい、苦しみ悩みから解放してくれる天に向かいたい、と思うことはあると思います。しかし、インターネットを検索しても、マスメディアに現れる様々な言説に従っても、何も見つかりません。イエス・キリストの神は私たちの上に立つ存在ではなく、目の前に麦わらの上に寝かされている、マリアの赤ちゃんの中におられます。

神は、ヘロデ大王のような支配者、残酷な独裁者ではなく、私たちと同じ高さで目線を合わせてくれる、謙遜で弱い者の姿、存在になります。

占星術者たちはいったんは、エルサレムの大神殿に到着し、ヘロデ大王の王宮にも訪問しましたが、そこにはイエスはおらず、田舎の小さな村であるベトレヘムまで歩かなければなりませんでした。

2000年経った今でも、多くの人たちは真理を追求しようとして、いまだに残念ながら間違った方法をとっています。大神殿や王宮にいくことも、良いでしょう。しかし、本当の神はそのようなところにはおらず、貧しい馬小屋におられるのです。

馬小屋に到着した占星術者たちは、幼いイエスに東方から持ち込んだ供物をささげます。ゼニ・カネの欲望そのものである黄金、人を魅惑し支配する力の象徴である乳香、不老不死の肉体へのこだわりの象徴である没薬をイエスにささげ、それらへの執着から解放されたのです。

馬小屋でうまれた赤ん坊は死ぬために人間になったわけではありません。生きるために、また彼を信じる人が真に生きるために、人間になったのです。イエスと出会った占星術者たちは、「ヘロデを避けて、生きる幸せの鍵を手にとって、自分たちの国に帰っていった」のです。

新年には人生の新しい1ページが開きます。何も書いていない真っ白なページです。これからの一年間、占星術者のような心で、イエス様と私たちの兄弟姉妹を探しましょう。そしてイエス・キリストを心に宿し生きていけるように、新しい出発をいたしましょう。

2021年1月3日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

聖家族(12月27日)の説教(テキスト)

皆さん、ご存じのように24日のクリスマスから3日の主の公現の祝日まで、教会の典礼はイエス様の降誕について黙想するようになっています。今日はその中でもイエス様とその家族、聖家族についてです。聖書の中の聖家族は、あまりにも美化されている気がいたします。私たちは、イエス様とその両親が、本当のところどのような家族であったか、見ていきたいと思います。

どの国、どの時代でも、家族は社会の最小単位の核です。社会が痛むときには、その最小単位である家族に最初にしわ寄せがいき、家族が苦しむことになります。

ナザレにあったイエス様の家庭もそうでした。

マリアはすべてのことを心に留めていたと、言われていますが、何を心配していたのでしょうか。今日読まれたルカ福音書の中では、幼子イエスを抱いたマリアは神殿でシメオンと出会い、イエスの活動と受難、そして「心を剣で刺される」と表現されたマリア自身の苦しみを予言されています。マリアも家庭生活においては私たち以上に、悩み苦しみがあったことは想像に難くありません。

一方、父ヨゼフはイエス様の父親でしたが、マリアはヨゼフを知る前に妊娠したので、実際には養父というものでしょう。ヨゼフは神の御子誕生とその名をイエスと名付けるようにとの天啓を受け、それを信じ従います。この従順さは、創世記に描かれている蛇に騙されて神を欺くエヴァと好対照を成しています。ヨゼフは神を信じその保護を受けます。一方エヴァはその保護から離れた結果、価値観が分裂・崩壊し自分が誰だかわからなくなってしまいました。

先ほど申しましたように、戦争をはじめ社会が分裂し厳しい状況に陥ると、それは家族にしわ寄せがいき、家族の間にも分裂や不和が生じます。アダムとエヴァが楽園を追われた後、カインが弟アベルを殺してしまうのは家庭内不和の極端な例です。また今日の第一朗読で触れられたように、アブラハムとその妻サラが長く不妊に苦しむなど、家庭内の問題は昔も今も変わりありません。しかしアブラハムが、折角生まれたイサクを神に試されて、供物に捧げかけたように、私たちの信徒の先達は家庭内の問題に直面した時には、神に従うことでその問題から切り抜けてきました。

家庭内虐待が社会問題となって久しくなります。忙しくて面倒を見ることができないのか、そもそも子供を愛することができないのか、子供が放置されたり虐待されることが報道されています。家庭内の雰囲気はとても大切なものです。父親・母親・兄弟に愛されて育ったという感覚を持つ人は、家庭が心を癒す場所であるということをわかっているので、家庭内で困難に直面してもそれに立ち向かうことができるのでしょう。「他者と共に生きる」というのは、実は社会だけでなく家庭内においても、難しいものなのです。家庭内では各人がそれぞれの仕事をしているだけではなく、お互いの顔を見て、今どのような気持ちでいるのか察しあうことが大切です。この雰囲気があってはじめて、何かを生み出す家庭、たとえそれが潰れても立て直すことができる家庭、になるのだと思います。

今までカトリック教会は、結婚は神の秘跡として、厳しい見方をとってきました。愛の掟を貫くということですが、それは十字架が縦板と横板から成っているように、神から人への愛(縦方向)と人間同士の愛(横方向)を愛の交わりとして固く繋げるということです。家庭生活のなかでは色々な出来事が生じます。アクシデントや不幸と思われることが起きても、神への信仰と教会の人々との交わりの中でそれを受け止め、人間としてのバランスをとれるようになるのです。家族同士の信頼が時として損なわれ危機に陥ることもあります。このような時、神を忘れ、罪を犯したダビデが悔悟ののちに神から許されたことを思い起こしてみましょう。信頼を忘れて自己中心に陥り、好ましくないことをしても、ダビデは神から捨てられませんでした。それはダビデが深く反省し償う心があったことと、そのようなことを超える「絆」が神とダビデの間にあったことを意味します。

このように家庭生活に関連する箇所は聖書にはこのほかにも多くあり、私たちの家庭生活や人間関係を見直す時には、聖書をひもといてみましょう。このとき次の三点に気をつけると良いと思います。

・聴くこと:神様のみ言葉に従う、聖書のメッセージに耳を傾ける、各家族メンバーの声を聴くこと。

・生命を大切にすること:子供は自分のものではなく神から預けられたもの、共に成長していく雰囲気づくり。

・協力すること:マリッジエンカウンターなど、夫婦や家族の問題を話しあう相手や場を見つけること。

最後に、自分自身だけでなく、困っている家族、苦しんでいる家族への関心を私たちは持ち、家族同士、愛の交わりを深めることができることを神に祈りたいと思います。

2020年12月27日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第4主日(12月20日)の説教(テキスト)

皆さん、待降節最後の日曜日、クリスマスももうすぐです。

今日は、イエス様が宿られたマリア様の模範に学びながら、イエス様を迎える準備をしたいと思います。

今日の第一朗読で読まれた旧約聖書、サムエル記(サムエル下71)は、今から3千年前、長い間砂漠でさまよっていた神の民がイスラエルという約束の地に定着するようになった頃の話です。

その約束の地をめぐる異邦人との長い戦いに勝利したダビデ王は、レバノン杉でできた素晴らしい王宮に住めるようになりました。しかしダビデ王は、自分がこのような壮麗な建物に住んでいるにもかかわらず、我らの主がおられる契約の箱は、幕屋に安置されたままであることに不安を感じます。そこで、預言者を通して神殿を建てたいと神に相談したのです。ところが、預言者に下ったお告げは、そのようなものは不要であるということでした。

つまり、神とは、そのような狭い箱に入り壮大な大神殿の奥の院にあるようなものではなく、神はどこにでもいるもの、特に人の心の中に住むことを望んでおられる、ということだったのです。

確かに仲間と共に、神と祈りにより結びつくことができる、落ち着いた場所は必要でしょう。しかしそれを強調しすぎると、かえって神が人の普段の心から離れていきます。神は定住するよりも、ひとところに落ち着かず放浪生活が好きなのです。人間には感知できない、どこにでも、いつでもいる存在であり、人の心の中に宿るものであり、また、宿りたいと願っているものなのです。

このことを、今日の第二朗読(ローマ16-25)の中でパウロは別な角度から言っています。

神は大神殿の奥の院にあり神官に守られあがめられたりするものではない、と何度も何度も預言者を通して人間に伝えているのに、人間はそれを聞かずに神殿を建ててしまう。そこで、神ご自身であるイエス・キリストを世に送り、異邦人でも誰でも、日常生活の中で、人と人との交わりの中で、すべての人と神が出会うことができるようにする、というのが「神のご計画」であり、福音(神の良い知らせ)なのです。

この神のご計画では、神は人間の手で作られた壮麗な神殿ではなく、マリアというナザレの若い女性の胎内に宿ることになりました。今日読まれたルカ福音書(ルカ1-26-38)では、医者であったルカがマリアの受胎告知の情景を具体的に詳述しています。カトリックではガブリエル、ラファエル、ミカエルを三大天使といい、それぞれ「神の影響力」「神による癒し」「神の力」を伝える存在です。そのガブリエルが現れ、神のご計画をマリアに伝えたのです。

このルカ書で描写されるマリアの姿は、感情をあらわにはしませんが、決して無気力な心ではなく、偏見の無い開かれた心、素朴ながらも奥深い信仰、といったものです。男性を知らず、神から直接影響を受けた子の母となるということは、とてつもないことです。しかしマリアは動揺せず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。文語では「仰せのごとくわれになれかし」と言われますが、「なれかし(be it done)」はラテン語でFiatの一語となり、マリアの深い信仰に裏打ちされた従順さを示す一語(マリアのフィアット)として今日に至るまで伝えられています。

責務・運命をすべて一人で背負うのではなく、ある歴史の一節に過ぎない、3千年前からつながっている神と私達のつながりの中で、マリアの信仰と従順さを手本に今を生きましょう。昨日は過ぎましたし、明日はまだ来ません。今しかないのです。

2020年12月20日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第3主日(12月13日)の説教(テキスト)

「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ5-16 

今日読まれた、聖パウロのテサロニケの教会への手紙の有名な一節です。これは弱気になっている人への励ましの言葉でしょうか。私たちにとって、何を喜べば良いというのでしょうか。 

人生では喜びも悲しみもあります。そして先々がどうなるかは誰もわかりません。曇天の夜空の向こうには星が輝いていることは知っていても、実際に闇夜にいる時にはそんなことは想像できないものです。 

最近わたくしが聞いた嬉しい話は、喜びは小さな日常生活の中にあります。子供が生まれたり、就職したりした、今まで疎遠だった家族が会えるようになった、等々です。これらの個人の小さな幸せを分かち合い、私たちは団結・連帯して大きな問題に立ち向かわなければなりません。 

しかし現在はコロナ禍により人が集まることが難しく、教会もようやく徐々にあつまれるようになりましたが、わたくしたちは小さな羊の群れのようです。高齢化も進み、今までの感覚が消えていく寂しさも感じられます。このような時に、「いつも喜んでいなさい」とはどのような意味でしょうか。 

こんな時にこそ、聖書をとてもゆっくり読んでみましょう。イエスが実際、どんな時に喜んでおられたかを見てみましょう。 

 

人間としてのイエスの一生を見て、それは喜びがあるものであったのでしょうか。村々をめぐり病者を癒し、さまざまな人と出会います。味方だけでなく敵も増え、そして最後は十字架上の死を迎えます。この十字架上のイエスの姿、自分を処刑する人を許してくださいと神に祈るイエスの姿を思い起こしてください。これは天の父への無限の信頼、そして人に対する無限の許しの姿です。彼の心の底にある、本当の「力」を、今もわたくしたちは見ることができるのです。屈辱され十字架上の死で終わったイエスの30数年の人生は、失敗の人生であったのでしょうか。決してそうではありません。イエスはすべてを成し遂げ、神の人間への愛を示すという使命を果たしたのです。 

「喜びなさい」という意味は、心の喜び、イエスが私たちに示してくださった、心の奥にあるもっとも大事なものに気がつきなさい、という意味です。 

私たちはイエスのように弱さを克服し、イエスのように、悲しみ・屈辱・困難を乗り越え、最後には神様の御許に帰ることができます。それは隣人を助けることにより力を得、仲間と連帯することで自分の弱さを克服することから始まるのです。 

最後に、教皇様が3年前述べられた、「希望をもって喜びなさい」というお話を紹介させていただきます。是非ご覧になってください。

教皇フランシスコ、2017年3月15日一般謁見演説:14.希望をもって喜びなさい(ローマ12・9-13参照) | カトリック中央協議会 (catholic.jp)

2020年12月13日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第2主日(12月6日)の説教(テキスト)

「主のみちを整え、その道筋をまっすぐにせよ」というヨハネの言葉を聞くと、特に今パンデミックに苦しむ現世にあって、では救いの道はどのように示されているか世界中の人が知りたいと思うことでしょう。 

人間である以上、人は苦しみから救われたい、困難から解放されたい、と思うのは自然なことです。しかし、小説を飛ばし読みをして結末だけを知るようには、キリストが示す救いに到達することはできません。それは、一歩一歩、人と交わり、人と共に工夫しあって、キリストの道を歩んでいくことで到着できるものなのです。 

今日からはマルコによる福音書を読んでいきます。四大福音書は、マタイによる福音書は学者肌で理論的、ルカによる福音書は弱者と接するイエスの姿を詳述するなど、それぞれ特徴がありますが、マルコによる福音書は彼がペトロから聞いたことをまとめ、分量としては比較的短いものとなっています。それゆえ、要点をストレートに私達に投げかけてくるものとなっています。 

この福音書は洗礼者ヨハネが荒れ野にて洗礼を人々に授けるシーンから始まっています。当時ユダヤ教はローマ帝国の支配を容認し弱者保護には無関心であるなど、人々の支持を失いつつありました。そのままであれば、その親同様、ユダヤ教神官の道を歩んでいたであろうヨハネは、その道から離れ、荒れ野(砂漠)にて極めて質素な修道生活を始めました。 

文明社会から離れ、何もない砂漠の中で、神と自分とだけに向かい会う、そのことによって考えなかったことを知り、見えなかったものを見えるようになったのです。 

何も無い荒涼とした砂漠は神様と出会うには、適切な場所でありました。今の私達も、教会に来れなくなった、人と会えなくなった、聖体拝領もできなくなった、と同じ荒涼とした砂漠にいるように感じられている方もいると思います。しかし神様は、家でも社会の中でも、24時間答えてくださいます。どんな状況の中にあっても、神様は私達を見捨てることはないということを、忘れないようにしましょう。 

荒涼とした砂漠のイメージは、便利な都会の暮らしの対極にあると思われがちですが、実は今生きている私達の暮らしは、多くの責任や不安を抱え、慰め・共感・希望に乏しい殺伐としたものになりがちではないでしょうか。その意味では、砂漠に生きているといっても過言ではありません。これから救われるためには、今のライフスタイルを変え、別な生き方や生活を求める道を選ぶ、ということになります。ヨハネが砂漠に入り神と出会い、人生の中で大切なものは何かを知り、その後短くも最後まで神と共に歩んだ洗礼者ヨハネの生き方が参考になると思います。 

自分の使命に気づき、自分の生きる道筋をまっすぐにする、ということはいつでもできることです。それは洗礼を受け神とつながることによって確実となります。なぜなら神様は私達を決して見捨てないからです。 

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いていかれる」(イザヤ40-11) 

2020年12月6日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

待降節第1主日(11月29日)の説教(テキスト)

「目を覚ましていなさい!」と、今日読まれた聖書ではイエス様は3回も言われました。これはどのような意味なのでしょうか。

今日から待降節が始まりました。教会暦では今日からB年となり、これから一年間かけてマルコによる福音書を読んでいきます。マルコがイエスの直接の弟子ではなく、ペトロの話を受け取って書かれたこともあり、マルコによる福音書は先週まで読まれていたマタイによる福音書と少し異なります。これから少しずつ読みながら、その違いを味わい私達が、「目覚めるように」学んでいきましょう。

待降節が始まったということは、もう4週間後にはクリスマスが来てしまいます。救い主が来たと祝うのに、また来るとはどういうことでしょうか。

これはイエス様が人の形をとってこの世においでになり、死と復活をもって「良い知らせ」を私達に下さったあと天に戻られました。そののちに今の私達がいます。そしていつであるかはわかりませんが、この世がすべて終わる時に、イエス様は再び来られるのです。イエス様は決して私達を裁く怖い裁判官のような方ではなく、私達を喜んで迎えに来てくれる方です。ですから、その「いついらっしゃるかわからない」イエス様の再臨にそなえて、私達は常に目覚めていなければならないのです。

3週間前、いつ来るかわからない花婿を待つ乙女達が、うっかり灯の油を切らしてしまうたとえ話が読まれました(マタイ25,1-13)。日常の暮らしに流され、信仰や隣人愛といった心の油を切らし、暗闇の中で惰眠を貪ってはいけません、という警句でした。今日読まれた聖書も、日々の暮らしの中で、一歩進んでイエスの良い知らせとは何か、探さなければならないことを言っています。

現実を振り返れば、欧州ではコロナ禍がぶり返し、多くの人々が狭い環境に閉じ込められ、生活困窮者が増えています。日本においても同じ苦しみにあっている人が数多くいます。このような中からどのような解放をえられるでしょうか。

「目を覚ましていなさい」とは、私達は生きている限り毎日、チャンスがあるということです。

毎日、少しばかりの時間をとって、聖書を読む、祈る、瞑想するということを行いましょう。自分を見つめ、自分を認める訓練をしてみてください。

私は、いつ、どうなるなどという、今までいろいろな大きな計画を立てていた方々の中には、それらが今や大きく変わってしまったこともあるかもしれません。

しかし、大きな計画を立てられなくても、心の中で小さな目標を立てることができます。毎日、なんらかの形で「イエス様と出会う」そして「兄弟を助ける」ことはできます。そしてそのことにより、自分という人間を成長させることができます。

物質的には、今までどおりの日常生活に戻れないことがあるかもしれませんが、一人一人、自分自身の解放のために、自分のできる小さなことをすることにより、イエス様のように大きくなれるのです。

この待降節にイエス様と出会うために、次の祈りを唱えてみましょう。

「神様、あなたを良く信じている私達は、まだまだ弱い存在です。どうか私達を強め、あなたが離れている、留守だと思ってしまう時にも、あなたを思い出せる力と忍耐力をお与え下さい。そして時間を大事にし、イエス様と兄弟と共に歩み続けることができますように。」

最後に、一年前教皇様が来日した際に私達に与えてくださった課題を想いおこしましょう。

・世の中での平和の道を拓けますように

・互いに深い憐みをもって人を迎えることができますように

・教会の中、兄弟同士がより深く、本音で話し合うことができますように

また、このコロナ禍の中、帰国することもかなわず社会の底辺にあって苦しむ異邦人を助けることができますように。

「主よ、あなたはわれらの父、私達は年度、あなたは陶工。私達は皆、あなたの御手のわざ。(イザヤ647)

2020年11月29日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者