カトリック教会とは

イエス・キリストの教えと生き方、そして復活を信じる。これこそがカトリック教会の教えの根 源です。これはミサの中で唱えられる「使徒信条」にあらわさせています。

そのイエスの教えと生き方、復活が記されいる物が新約聖書です。新約聖書はイエスとの出会い、 この方を「キリスト(救い主)と信じた弟子たちや人々の喜びを記した、いわば信仰の証言葉のこ とで、人類の偉大な遺産として、いつの時代でも人々に生きる光と 力を与え続けて来ました。イ エス・キリストは、弟子の中から12人を選び「使徒」としました。そしてペトロに使徒の頭とし て特別な使命を委ねました。使徒たちは各地に宣教し、キリストを信じる者たちの共同体、すな わち教会をつくり、自分たちの後継者を定めました。ペトロはローマに行き、教会をつくりまし たこのペトロの後継者がローマ司教、すなわちローマ教皇です。そして使徒たちの後継者が世界 中で働いているのが司教なのです。この保土ケ谷カトリック教会も、その共同体のひとつなのです。

2021年2月27日 | カテゴリー : ご挨拶 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

壮年会

・ 私達保土ヶ谷教会壮年会は保土ヶ谷カトリック教会に所属する信徒、求道者、また、未信者でも参加出来る「壮年」の集まりです。

・ 壮年とは何を意味するのでしょう。辞書で「壮年」を引きますと「心身ともに成熟して働き盛りの年頃。また、その人」とあります。

・ しかしながら今の保土ヶ谷教会の壮年会は、会社を定年になった人が多く、ビジネスにおける働き盛りの人だけでなく、「神への働き」、「人への働き」、「社会への働き」における働き盛りの人も沢山いる会です。

・ 要は、私こそが「壮年」と思う老若男女全てが参加出来る会です。

・ 活動としては、奇数月、第2土曜日のミサ後(午後6時頃)例会として一献傾けつつ「霊的生活と実生活の一致」をテーマに分かち合いをしています。

・ また、分かち合いのみならず、教会行事への協力、飲み会、ゴルフコンペ等楽しいイベントも行っています。

・ 皆様、参加してみませんか。

2021年2月27日 | カテゴリー : | 投稿者 : HP編集者

教会委員会

教会委員会は主任神父と各部会の責任者(信徒) からなり、教会運営の方針を決定あるいは主任司祭に 助言していきます。

2021年2月26日 | カテゴリー : | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

標準年の主な年間行事

1月       成人式

成人となった若者を祝い、前途を祈ります。

3-4月

四旬節、復活祭(共同回心式)

復活祭はキリストの復活を記念するお祝いでイースターとも言われます。

四旬節はその前5週間にわたりキリストの苦難を思い、祈りや犠牲を捧げる期間です。

5月       マリア祭

6月

初聖体

キリストの聖体(聖別されたパン)の記念日です。初めて聖体をいただく信徒は

この日にお祝いをします。

8月

聖母の被昇天祭(保土ヶ谷教会祝日)

聖母マリアが天に昇られた日を記念します。

9月

敬老の日

敬老行事を行います。

11月

バザー、七五三

バザーは信徒と地域の方々との交流をめざしています。 七五三は健やかな子供の

成長を感謝祝福し、祈ります。

12月

待降節、降誕祭(共同回心式)

降誕祭はキリストの生誕を記念するお祝いで、クリスマスとも言われます。

年末

往く年、来る年

新しい年への希望を祈ります。

地元の情報交換や班員同士の交流など

地元に密着した活動を行っています。

2021年2月26日 | カテゴリー : 行事 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

2021年2月26日 | カテゴリー : 地図 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

四旬節第1主日(2月21日)の説教(テキスト)

今日は四旬節の最初の主日です。

四旬節のはじめに読まれる聖書の箇所はほぼ決まっており、第一主日はイエスが宣教を始める前に、霊に導かれて荒れ野で40日間修行を行ったことが書かれています。この時イエスは神の代理としての使命を確認しています。イエスは何を確認したのか、それが私たちにどのような意味を持つのか。

マルコによる福音書では詳しくは書かれていませんが、ルカやマタイによる福音書に書かれた内容も踏まえて、考えてみたいと思います。

引き続き私は今、5~6世紀に中東の砂漠地帯に隠棲していた初期キリスト教の教父達の著作を読んでおりますが、その中で次のような考え方が目を引きました。それはイエスがサタンから挑まれた三つの誘惑とは、人間が構成されている次の三つの要素に対応するものである、というものです。

① 肉体:他の被造物同様、物理的に存続するために栄養が必要です。パン、つまりは肉体を満足させるものは必ず必要なものですが、人間は必要以上に蓄積する人と、飢える人に分かれてしまいます。すなわち「パンの誘惑」にさらされ、そこに人間の本音が現れます。人は、真に分かち合うことができるか、という命題を常に問われています。

② 魂:人は誰でも人生において成功したいと思い、それは必要なことです。しかし激しい競争の中で、他人を無視したり踏み台にするなどして、自分だけが良ければ良いという生き方では、成功した人生とは思えない気持ちでこの世を去ることになるのです。生まれながら恵まれている人は、人を支配するためではなく、お互いに支えあうことによって霊性を高め、成長することができます。

➂ 霊:肉体と魂だけではなく、人には我々と神をつなぐ何かがあります。この霊の導きによって、人は悪魔との戦いに負けず、より人間らしく生きることができるのです。

食べ物に乏しく自然環境の荒れ野には、また恐ろしい野獣も居ました。そのような中でも、イエスが飢え死にすることも、野獣に襲われることもなかったことは、神に従えば自然の厳しい変化や、けだもののような人からも私たちは害を受けず安全に生きていけることを示しています。3年前に教皇フランシスコが「Laudate Si ラウダテ・シー」という書簡を通じて、自然と人間、人間同士の生き方について、霊的な戦いを続けるよう励まして下さっています。

今日の聖書の後半(マルコ1-15)に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉があります。これは、イエスが今、生きておられる神の言葉として、「この厳しい状況に置かれている私たちが、他者と自然界との連帯を学び、非人間的な扱いを受けている人々と破壊されている世界を守り立て直すため、神のしもべとして生きるイエスの模範に従って生きましょう」ということを意味しています。

さて、「そう言われても、今は新型コロナのせいで、しばらくの間、何もかも分からなくなってしまった。自分のことすらも。」と思われている方も多いと思います。わたくしは、この危機の時こそ、救いの手を差し伸べられているイエス・キリストの手を握るチャンスと思います。神の言葉に触れ祈ることにより霊性を高めましょう。私たちにとって、この四旬節の務めは大きな恵みです。教皇フランシスコは「祈る、神様とつながる、ということは大きな力になりますので、積極的に参加して下さい」とおっしゃっています。

イタリアに「サン・エジディオ」という平和と共生を考える団体があります。そのリーダーであるエンゾビアンキ氏は、「霊的な活躍を支えてくれる神の言葉は、普通の書物の言葉と全く違います。神の言葉は、人間に贈られる「生きるためのメッセージ」です。神を知り、イエス・キリストと出会うことができます。神の言葉は、生きている命の言葉であり、それ無しにキリストの命を受け入れることはできません」と言っています。

このことを踏まえて、今年の四旬節を上手に過ごすために、二つの提案があります。

1.イエス・キリストの言葉を聴きましょう。

以下の方法で心の門をあけて、聖書を読んでみましょう。

―教会(聖堂の門を開ける:心を静かにし、聖霊の助けを求める。

―口の門を開ける:聖書のみ言葉を声に出して読む。

―沈黙の門:目で言葉を静かに読む。

―好奇心の門:気に入る、心に残る箇所に注目する。

―ハートの門:敏感に感じ入る点について瞑想する。

2.沈黙のうちに祈りましょう。

―神を感じるには、心を静かに受け入れる場所と準備が必要です。

―日常生活の忙しさ、雑音や不要な情報、便利な機械や装置からしばし逃れ、自分自身に戻れる「荒れ野」のような環境を準備しましょう。

―身近にある家族、友人、職場の仲間などを思い起こし、また訪れる春の自然を感じ、すべての源である神と向かい合いましょう。

2021年2月21日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

年間第6主日(2月14日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書(マルコ1-40~45)はイエスが重い皮膚病の患者を癒す情景を描いています。

現在パンデミックにより苦しむ私たちにとって、この聖書の箇所、イエスと病者の出会いは何を意味するものなのか、考えてみたいと思います。欧州起源のことわざで「木を見て森を見ない」というものがありますが、このイエスのたとえ話の細部にこだわることなく、その全体の意味を知り、このパンデミックによる様々な不便の中にあっても私たちが一歩ずつ進歩できるようになりたいと思います。

この重い皮膚病、つまりハンセン氏病については、横須賀三笠教会の浜崎神父が、国の隔離・差別政策に対する訴訟支援などを行っています。イエスの時代、ライ病と言われたこの病気への差別はさらに激しく、それは社会的なものにとどまらず、宗教的なものでもありました。レビ記13章によれば、このような病状を持つものは、何か罪を犯した「けがれた者」とされてしまい、神殿参拝はおろか普通に人と接することも禁じられていました。そして病が完治しその事実を神官が認めない限り、社会へ戻ることは許されませんでした。

現代の日本社会ではこのような病者への宗教的な差別はありませんが、法律の外側で、病者が世間的な差別や支援の乏しさに苦しんでいる状況が依然としてあります。ですので、私たちは学ばなければなりません。

このたとえ話のポイントは、まず病者は自ら勇気をもってイエスに近づき、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったことです。宗教的・道徳的に汚れた状態にあっても、それから逃れたいと思う強い心を持っていたことに注目しましょう。そしてイエスは病者を「深く憐れんで」(ギリシア語では、はらわたがちぎれるほど強く心が痛んで)、手を差し伸べて病者に触れました。この病者と会うことはもちろん触ることもタブーだったのですが、よきサマリア人のたとえ話と同じように、それを簡単に乗り越えていったのです。

以前の説教で、キリスト者は言葉と行いが一致しなければならない、ということをお話ししましたが、ここでもイエスは言葉だけでなく、実際に触れるという行為をし、その結果病者は快癒しました。その前提として、病者自らが最初にタブーを破り、イエスに勇気をもって近づいて行ったことがあります。

このことから私たちは学ぶことは多いと思います。わたくしは、三点あると思います。

― 私たちは今ソーシャルディスタンスを図らざるを得ない状況に苦しんでいます。その中で少しでも人間らしく生きるようにするためには何をしたら良いか。コミュニケーションを減らしたり断ったりするのではなく、コロナをチャンスとしていままであった心の壁を取り除き、ソーシャルディスタンスを保ちつつ工夫して交流を深めるといったことが望まれるのです。

― また、私たちは福音に出てきた病者のような勇気を持っているでしょうか。社会参加をあきらめ、怒ったり悲しんだりしているだけではなく、勇気をもって社会の動きに関心を持ち続けましょう。

― 最後に、今一度キリストとのかかわりを見直してみましょう。祈りと聖書を読むことによりイエスと出会い、人を大切にすること、お互いに尊敬しあうことの大切さを今一度思い起こしましょう。そして今回のコロナ禍の中での試練を、ライ病病者とイエスの出会いのシーンをイメージしながら、この試練を乗り越え私たち自身がかえって強くなれるようにいたしましょう。

2021年2月14日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

年間第5主日(2月7日)の説教(テキスト)

もうすぐ四旬節がはじまり、そして復活祭という季節です。コロナにより昨年出来なかったことが、今年はできるでしょうか。

長い試練が、私たちをはじめ世界中の人たちに課せられています。

今日は、第一朗読で読まれた、神から与えられた試練に苦しみ抜いた義人ヨブを見て、人間と神のかかわり方を見てみましょう。ヨブ記に書かれていることは、パンデミックによって、何も悪いことをしていないのに、多くの人が苦しむ、現在の私たちと似ているところがあるからです。

ヨブ記そのものは、創作された作り話であることをご存じの方も多いと思います。ヨブという人物は存在しませんでした。しかし、人類にとってはヨブ記が書かれた3,000年前も、今も悪との戦いは、変わらない大きな課題です。

ヨブは、神を敬虔に敬う非の打ちどころのない高潔な人物で、社会的にも家族にも恵まれ、多くの人に尊敬されていました。その彼が、彼自身何も落ち度が無いのにもかかわらず、大きな不幸に見舞われます。財産も家族も失い、不治の病に倒れ、友人すらも去ってしまいます。神が不正義をするはずが無いので、このような大きな不幸に遭うのは、ヨブが何か誰も知らないところで大きな罪を犯したのではないかと友人に疑われ、妻にまで神を呪って死ぬ方がましと言われるのです。

ヨブは神に反抗する代わりに、「なぜ、罪のないものが、いつまでも苦しまなければならないのか」と問い続けます。ヨブ記では、神に向かって、問いかけを続けるヨブの姿が描かれています。

「神はなぜ答えてくれないのですか」

「神は耳が遠いのでしょうか」

「神は、不正を喜ぶ者なのでしょうか」

ヨブは自分が無罪であることを訴え続け、考え続けながら、ようやく次の3点に気が付くのです。

1 神は悪の原因でも、解決でもありません。

神自身も悪に苦しめられ、悪との戦いに力を入れるのです。ヨブも悪との戦いに神が擁護してくれることに気づきます。

2 神と対話を続けながら、神がすべてを無償で与えてくれることに、気が付きます。

3 全能といわれている神が、実に弱いものです。創造された世界は完璧なものではなく、完成するよう人間にお任せになりました。人間にも自由を与え、決断できるよう育ててきました。

神は一体何をお望みになるのでしょうか。それは、世界が法と正義の支配下にあるように望まれておられます。しかしそれは神が造られた世界の法則です。

ヨブはこれらに気がついたことにより、再び神に希望をおきます。そして葛藤を乗り越えて、愛する神を再び信頼するようになり、幸せを取り戻す、という内容です。

さて、ヨブとイエスの運命の間に大きな共通点があります。正しい人であるイエスが疑わられたり、排除されたり、最後には死刑を宣告される、といったような点です。イエスもゲッセマネの園で、苦しまれながら、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14-32)」とあるように、苦しみながらおん父を信頼し続けるよう努力しています。

フランスの作家であり駐日大使でもあった(1921-1927)ポール・クローデルは、「イエス・キリストは苦しみをなくすためではなく、私たちと共に苦しむためにこの世に来ました」と言っています。

私たちも世界中で苦しめられている人々と共に生き、悪と戦い、神に信頼を置きましょう。

2021年2月7日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第4主日(1月31日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書は、先週に引き続き、イエスがガリラヤ湖畔で弟子にした四人を連れて布教活動を始めた時の物語です。

まず気づくことは、イエスは大衆の中によく入りこんで教えを説き、人々もまたそれを熱狂的に受け入れたということです。ユダヤ人が土曜日に集まっていた公会堂、湖畔、あるいは山の上など、さまざまな場所でイエスは教えを説き、多くの人々の心を掴みました。このようなことの背景には何があったのか、皆様と一緒に見てみたいと思います。

この時期に行われたイエスの説教は、人々の心を奪い魅了するものであったと言われていますが、実際の内容については伝えられていません。

マルコはイエスの直接の弟子ではありませんでしたが、イエスの死後ペトロとパウロから聞き取ったものを、イエスの死後30年ほどでまとめました。一昨年皆さんと共に読んだルカによる福音書は、医師ルカの細かな記述が目立ち、昨年読まれたマタイによる福音書は、おしゃべり好きなマタイによる生き生きとした情景が印象的でした。では四大福音書のなかで最も短いマルコによる福音書は、何が特徴でしょうか。マルコは、イエスの死後30年の間、残された弟子と信者たちが鮮明に覚えていたイエスの記憶を聞き取り、その中から大事なものを選りすぐって書きました。

このマルコ22節では、「その時人々はイエスの教えを聞き、権威ある新しい教えだ、と驚いた」と書かれています。この権威とはどのようなものでしょうか。

権威のイメージとしては、仏教の大きな仏像が思い浮かびます。仏像には表情やポーズについて一定の決まりがあり、それに基づいて仏像が製作されています。それではイエスのイメージとはどのようなものでしょうか。イエスの顔については何も伝えられていませんので分かりませんが、

私の個人的なイメージでは、右手には経典(聖書)を持ち、左手は人々に向かって手を掲げている、というものです。この左手は指先は天に向かって天の父と私たちの間を結ぶ、そして手のひらは私たちに向かって私たちに働きかけています。今日読まれたマルコによる福音書の箇所も、まず人々に聖書の話をした後に、実際の行動として悪霊を追い払うという、二つの行いがなされました。

この聖書の言葉だけではなく、行いが必ずついてくるというところが、イエスご自身およびその後弟子たちが伝えていくキリストの教えの中核にあります。

イエスは自分の言いたいことを伝えるのではなく、相手がイエスの考えを理解し、自分自身でその考え・行動を改めることを望んでおられました。そのために、聖書はしっかりと右手に持ちつつ、左手では神とつながって人々に作用する、ということをなさいました。一方、律法学者達は、経典(旧約聖書)をふりかざすが、神とも人々ともつながっていない、自分たちの権力のために神の権威を用いていると、イエスは非難されたのです。

イエスにとって、神の言葉や聖書とは、人々を救うための大事な道具でしたが、目的ではありませんでした。人々を救い、真の人間らしい生き方を送らせるためのものでした。そのようなイエスの目からは、神の言葉を用いて自分自身を飾り、庶民を見下し関わろうとしなかった律法学者は、否定されるべきものだったのです。

弱い者を非難したり支配するのではなく、再び自分で立ち上がれるように励ましたり助けたりする、少なくとも関わろうとする、このようなイエスの姿を今日の福音は描いています。

悪霊は「かまわないでくれ、正体はわかっている、神の聖者だ」、つまりイエスが聖者であることは認めるので、他の律法学者同様、その男に関わらないよう叫びました。それに対しイエスは悪霊を叱り、言葉だけではなく、実際に不思議な力の行為として悪霊を手で追い払われたのです。

よく聖書に出てくるイエスによる「癒し」、言葉としてはよく目にしますが、このように言葉だけでなく必ず深い関わりと行為が伴ったもの、と理解すると少しずつ実態が見えてきます。

これをさらに理解するために、最近コロナ禍で得た時間を用いて、ローマ帝国崩壊後の5~7世紀のキリスト教の古典を読んでいます。この時代、多くの教父たちは荒れ野や洞窟に隠遁し、イエスの教えを学び解釈しようとしていました。

その中で、この「イエスによる悪霊の除霊」につながる興味深い解釈の一つに、例えで言うと、「人間とは、(ハンバーガーのように)パンにはさまれた肉のようなもの」というものがありました。ハンバーグが人間自身の魂、下側のパンが人間の肉体、上側のパンが霊、つまり肉体と霊により魂が包み込まれた状態、という解釈でありました。この霊の部分は欲望に負けて悪霊につけこまれたりする一方、信仰により神と繋がったりすることができるものです。下のパンは物理的・肉体的に自分以外の人々や社会とコミュニケーションをとる一方、上のパンでは深い気持ちや感情のやり取りを行うもの、この双方が自分の魂に影響するという考えです。

このように考えると、悪霊に取りつかれた、すなわち絶望と不信により深い気持ちや感情のやり取りができなくなった人々であっても、それはイエスからの右手と左手の力によって癒されるということを示しています。

私たちも、この話から何かを汲み取り、日々の生活への希望と指針にできればと思います。

2021年1月31日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第3主日(1月24日)の説教(テキスト)

おはようございます。

今日は『悔い改めて福音を信じる』という、イエスの招きに応えて人生を歩むうえで、信じるというだけでなく自らを改めていくということについて考えたいと思います。

第一朗読(ヨナ3-1~10)では、ヨナとニネベの都の人々について語られました。神にも人にも愛されていたヨナは頑固な性格な人でもありました。そのヨナが、金儲けと戦争の話ばかりをする敵国ニネベの都へ、人々に悔い改めよと伝えるように、神から召し出されました。その役割を嫌がったヨナは、反対方向へ逃走しようと船に乗りますが、その船は大嵐に巻き込まれます。これは神の祟りと恐れた船乗り達はヨナを海中に放り込んでしまいますが、ヨナは大魚に飲み込まれ、三日三晩を過ごしたのちに吐き出され、海岸に打ち上げられます(このヨナの冒険談は、日曜学校で子供たちのほうがよく知っていることでしょう。)

このヨナ書のポイントは、ヨナが自分の過ちを認め勇気をもって敵国ニネベに乗り込んでいったこと、そして意外にもニネベの人々が自分たちの過ちに気づき、悔い改めて償いを行ったこと、そしてそれによりニネベは神から許されてしまうことです。 死を覚悟して「このままでは40日後にこの都は滅ぼされる、皆罰をうける」と叫んでいたヨナは、罪深い人たちがあっさり許されてしまったことに納得がいきません。

しかし今日読まれた詩編25章にあるように、「神はあわれみ深く正義に道、罪びとに道を示される。神は貧しい人を正義に導き、へりくだる人にその道を教えられる。神を恐れるひとに神は心を開き、契約を示し、諭される」のです。 非ユダヤのアッシリア人、「罪深い」異邦人のニネベの人々が、素直に悔い改め神からの許しを得たのに対し、正しい信仰を持っているはずのヨナの方が神の愛を理解できず、異邦人への偏見を捨てきれず、その後も神との関係に苦労するという、含蓄のある教えです。

今日読まれた福音書(マルコ1-14)を見てみましょう。 洗礼者ヨハネが逮捕されてから、イエスは「神の良い知らせ」を伝えるために、北イスラエルのガリラヤに向かいました。ガリラヤはその地方の十字路と呼ばれ、ユダヤ人以外に多様な民族が住んでいました。そのことよりエルサレムの民衆よりも、神の愛の計画に参加するために、積極的にイエスを受け入れる予想があったのです。

その途中ゲネザレ湖畔で、弟子(協力者)を探し求めているイエスと、彼の後をついていこう決意する弟子たちの姿が今日の福音で語られます。彼らの求める幸せとは何であったか、を考えます。 神の子であるイエスは、どんな魅力をもって、すでに土地に根付き、家族と伝統を愛し大切にしていた人々に、それらを捨ててついてくるように呼び掛けたのでしょうか。またイエスの後について行く漁師たちには、どのようなモチベーションが働いていたのでしょうか。

イエスの「私についてきなさい、魚ではなく、人間をとる漁師にしよう」という言葉の中に、今まで果たせなかった夢を弟子たちが見つけたのかもしれません。そしてイエスのまなざしと言葉から出てくる影響力によって、その夢を追い求める勇気が与えられたのだと思います。イエスとの出会いとその影響力により、強い改心・回心が行われたのです。ゲネザレ湖畔の漁師達が探し求めていた道が、イエスの一言で開かれてしまいました。

この大きな転換の裏には、キリストの後へついて行けば、今までの人生で大切にしてきたものよりも大きなものがあり、それはどんなことがあってもなくならないもの、永遠に残るものであると気がついたことがあります。

さて、灰の水曜日、四旬節が始まるまであと三週間となりました。 四旬節の儀式は、今日考えさせられた言葉で始まるものでもあります。 「悔い改めよう(改心して)、天の国は近づいて(福音を信じなさい)」。

この「悔い改め」(ギリシア語:メタノイア)とは、単なる内面的な性質の変化ではなく、人生の完全な転向を意味します。神の助けを要する一方で、人の側もまた倫理的にふるまうことを求められるほどに、大きな方向転換という意味です。今までの努力が無駄であったということではなく、改めて、我々はもっと人間になろうではないか、という挑戦です。

2021年1月24日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者