受難の主日(3月28日)の説教(テキスト)

今日はイエスのエルサレム入城(マルコ11-1~10)と受難(マルコ15-1~39)という二つの圧倒的なシーンが聖書朗読で読まれました。

ホザンナの声も高らかに、大きな喜びのうちにイエスのエルサレム入城を迎えた人々は、そのわずか6日後には、イエスを十字架にかけろと叫ぶようになるのです。イエスに付き従ってエルサレムに入った弟子たちは人々の態度の豹変に恐れを感じたに違いありません。このイエスの入城から十字架上の死まで、弟子たちが経験したことは、弟子だけが経験したことではありません。世の人々の心は残酷なまでに移ろいやすく、その中で惑う人間の運命の過酷さは、まさに人間世界の特徴ではないでしょうか。神でありながらまさに人間と同じように生きるべく、イエスも人々に見捨てられ、苦悶のうちに死ぬ人生を選んでくださったのです。

このような迫害はあの時代だけではありません。つい先日、3月19日にも、インド中部のカルガ州というところで4人のシスターが地元のインド人に、キリスト教のシスターであるという理由だけで迫害を受けたというニュースがありました。今の時代にも信仰に対する迫害や困難は形を変えて続いています。イエスの捕縛後、弟子たちはイエスを見捨てて逃げました。彼らの信仰は足りませんでしたが、誰がそれを責めることができるでしょうか。私たちの信仰も、弱いものです。

しかし復活の朝、捕まらないように閉じこもって逃げていた弟子たちの前に、よみがえったイエスは姿をあらわします。そして、「あなたがたに平和」と言うだけで、彼らの信仰のふがいなさを決して非難したりはしませんでした。それは、まわりの状況にかかわりなく信仰を貫くことがいかに難しいか、イエスはよくわかっていたからです。イエスご自身の、ゲッセマニでの苦渋に満ちた祈りや、十字架上の「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びなどがそれを表しています。

イエスのエルサレム入城と十字架上の死によってあらわにされた、人の心と人の世界の移ろいやすさを超えて、神のみ旨によって与えられた自分の生き方を貫いていける、イエスに従う者たちの生き方があります。そのような生き方を支えきる信仰を、十字架の死に打ち勝って復活された主が私たちの中にふりいれてくださるのです。そのような信仰の恵みを願って、主イエスの死と復活の過越しの記念を祝うこの聖週間に、ともに祈り求めていきたいと思います。

2021年3月28日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第5主日(3月21日)の説教(テキスト)

ラジュ・アントニー神父様(戸部教会)の御説教

四旬節も第5主日を迎えています。来週には受難の主日と呼ばれる枝の主日です。

そして過ぎ越しの聖なる3日間の典礼を通して、私たちは復活祭を迎えようとしています。

今日読まれた福音では、「私が地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」というイエスの言葉が記されています。

この言葉は先週読まれた福音の言葉「モーセが蛇をあげられたように、人の子も上げられなけらばならない」と共鳴しています。

イエスが上げられる目的は、「信じる者が人の子によって永遠の命を得るためである」と言われたこととあわせて考えると、これは十字架にあげられたイエスからの私たちへの招きの言葉であると思います。

イエスは十字架上の死の意味を私たちが理解することを望んでいます。十字架にあげられたイエスは、私たちに「これを見よ」と言っています。そして私たちの救いを思い起こさせ、私たちに問いかけています。なぜイエスがあのような苦しみの姿をさらさねばならなかったのか、何がイエスを十字架に上げたのか、と。

イエスを十字架上に上げたものは、私たちに死をもたらすもの、罪であり、わたしたちが罪のすべてを見つめるよう十字架にあがったのです。イスラエルの人だけでなく、今生きる私たちの救いのために、私たちの罪の赦しのために、十字架にあがったのです。

さて、今日読まれた福音のはじめの部分に、素直にイエスと出会うために招き入れたギリシア人たちが出てきます。これらのギリシア人に対してイエスは「人の子が栄光受ける時が来た」と言っています。

このギリシア人は、最初に引き寄せられた異邦人の代表でした。救いはユダヤ人だけでなく、インドや日本などを含めた、すべての人々に与えられることを意味しています。その招きに応えて、私たちも日々私たちの十字架を持って、イエスの道を歩まねばなりません。その十字架の上には神によって与えられる栄光の姿が宿ります。すべての困難に打ち勝つ神の栄光のうちに示される助けを、今日も共に祈り、求めたいと思います。

 

 

 

2021年3月22日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第4主日(3月14日)の説教(テキスト)

ラジュ・アントニー神父様(戸部教会)の御説教

 

神は「ひとり子」をお与えになったほど、この世を愛された

モーセが荒れ野で蛇をあげられたように、「神のひとり子」の意味は何でしょうか。

この意味を理解するために、2月に戸部教会でおこなわれた黙想会にて、サレジオ会のコンブリ神父様が話されたことをご紹介します。彼はヨハネ福音書をから「言葉は肉となって私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。私たちはその栄光を見た。」を引用しました。イエス・キリストは神の人間への愛を表明する言葉として、肉体となってこの世に現れた「神のひとり子」と言ったのです。

神はそのひとり子をお与えになったほど、人間を愛してくださいました。今日読まれた福音のはじめでは、「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子もあげられなければならない」とありました。これは旧約(民数記21章)でモーセが荒れ野で毒蛇に苦しむ民を救った故事に基づいています。モーセは青銅で蛇の像を作り高く掲げると、噛まれて苦しむ人々はそれを仰ぎ見るだけで回復したのです。イエス自身も十字架上にあげられなければならない、そのために神ご自身が愛するひとり子をこの世に送って下さったのです。それほど、神は私たち人間を愛して下さり、イエスご自身の死によりそれは全うされたのです。

今日、洗礼志願式に臨まれる方々、そして私たちキリストを信じる者すべては、この十字架上のイエスを仰ぎ見て、信じるのです。そしてイエスの死によってもたらされた、神のひとり子の永遠の命をいただくことができるのです。

間もなく聖週間が始まりますが、このような私たちの信仰がより私たちの中に浸透していきますように。

2021年3月16日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第3主日(3月7日)の説教(テキスト)

先週に引き続き、旧約聖書を今もう一度見直し、現代の私たちへの神からのメッセージを探っていきたいと思います。

四旬節に入ってからは、自然災害から私たちを救う神(ノアの箱舟の故事)や、人ひとりの命の尊厳を守る神(アブラハムの息子イサクの生贄を止める故事)の姿が話されてきました。

今日の第一朗読では、モーゼが神の前に立って、立法を受け入れたシーンが描かれています。モーゼが率いるユダヤの民はこの律法を受け入れ、困難を乗り越えながら、神の民として生きてきました。

神はヘブライ人たちをエジプトでの奴隷状態から解放させ、そしてその後一人ひとりが自分のてで立ち上がれるよう、砂漠での40年間の体験が与えられました。その体験とは、「神と自分」および「自分と他者・自然」が共に生きるための基本法を学ぶということでした。それを神から学ぶことにより、神と結ばれることができるという契約でした。この契約の基本は、一人ひとりが、それまで囚われていたもの、端的には自己中心的な弱肉強食から解放されるということです。今日読まれた旧約聖書(出エジプト20・1~17)のとおり、10の掟がシナイ山にて示されました。問題はユダヤ人たちはそれを実生活に当てはめるよう解釈を続け、613もの細かい律法ができあがってしまい、細かい律法を守ることが何よりも重要とされてしまったことです。この結果、神殿の前では、このような人間が作った613の律法に適合すべく、正しい貨幣に交換する両替商、正しい生贄を売りつける業者がひしめき、商人や神官たちが、貧しい敬虔な信徒からお金を巻き上げていました。今日読まれた福音(ヨハネ2-13)では、イエス・キリストはこのような状況に憤慨した光景が描かれています。

イエス・キリストは論争をしながら、表面的な律法遵守に堕した信仰を正し、使徒行録2-42に次のように示されているような信仰共同体の中で生きることを求めています。

  1. 使徒の教え
  2. 共同生活の支えあい
  3. パンの分かち合い
  4. 祈り

このイエスの教えを受けて、ヨーロッパの政治・経済状況から、7世紀までエジプトからシリアまでの砂漠地帯で隠遁生活をしていた初期キリスト教の教父達は、Lectio Divinaという方法でキリスト教の活力を生かしていました。その方法とは、Lectio (読むこと)、Meditatio (瞑想すること)、Oratio (祈ること)、Contemplatio (熟考すること)からなっていました。これらの教父たちの教え、例えば四旬節第一主日にお話ししたような、「人間とは、物理的な存在を維持する“肉体”、感情を司る“魂”、そして人間以外のなにかと繋ぐ“霊”からなる」といった考えは、19,20世紀の心理学や精神医学など人間科学研究を先取りした部分が多々あるのです。

神から与えられる「解放」を理解し知る、そのためにもこの四旬節の中で、偽善や人を見下した憐れみではなく、私たちがどんな他者でも同じ人間として連帯し尊重できているか、今一度見つめ直しましょう。

2021年3月7日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第2主日(2月28日)の説教(テキスト)

ミサで読まれる福音と第一朗読(旧約聖書)はたいていマッチしています。

今日読まれたアブラハムの故事について、旧約聖書が単なる昔のお話としてではなく、現在につながるその意味を、理解してみたいと思います。

先週BSテレビでラッセル・クロウ主演の映画「ノア 約束の舟」が放映されました。旧約聖書に描かれているノアの箱舟の出来事についての現代的な解釈ですが、堕落した支配層と乱れた世の中にあって神がノアというしっかりした人を選び彼が被造物を選別して大洪水から彼らを救うという大筋は、旧約聖書のとおりでした。映画の中ではノアは自己中心的で頑固な権威主義者として描かれていましたが、これはこの映画独特の描写です。確かなことは、オリーブの枝をくわえた鳩が箱舟に舞い降りた時、それは彼らが助かったことであり、同時に神と人間の和解を象徴していることです。

神は人間に試練を与えますが、それは必ず人が再び立ち上がれるように助けてくださいます。

今日読まれた旧約聖書(創世記22-1~18)では、アブラハムが神より大事な一人息子を生贄に捧げるよう言われてしまいます。古代文明では、アステカやインカの文化でもあるように、人間を生贄にするというものがありました。アブラハムが生贄を捧げる直前にそれを止めましたが、これは私たちの神が私たちから何かが欲しい訳ではなく、私たちが自分の大事なものを他の人のために捧げる正義感を持って欲しいという希望を示しています。そして私たちが持っていると思っているものは必ず返すべきものであるので、自分だけの所有者としてふるまうのではなく分かち合うこと、自然環境を将来の子孫の代まで残すことを意味しています。

続いて読まれた福音書では、今も実際にあるタボル山という小さな山の山頂で、イエスが変容したことが語られています。

ペトロ、ヨハネ、ヤコブという3人の主要な弟子を伴ったイエスはこの山頂で、「白く輝き」はじめ、現れたエリアとモーセという、旧約聖書時代の預言者達と語り合い始めます。真っ白に輝くイエスは、神であるイエスの内面そのものを表し、イエスの十字架上の死と復活、神の勝利、神への信仰によって救われるなどのメッセージがそこには込められています。

この時、弟子たちにはまだその意味を完全には理解できてはいませんでしたが、光輝くイエスの姿を見て、イエスの内面を知りました。アブラハムも全てを捧げる直前まで行って、神の真実を知りました。

今、理不尽とも思えるコロナ禍に苦しむ私たちにとって、これらは何か示唆に富むものではないでしょうか。

アブラハムも3人の弟子たちも、最初は何もわかりませんでしたが、神に従った結果、より深く神の意図を理解できるようになったのです。

この四旬節の時期、よりよく私たちが何を神に願うのかよく考え、私たち同士の連帯を強め、神とつながりましょう。

 

2021年2月28日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

主任司祭からのご挨拶

2018年4月より保土ヶ谷教会の主任司祭となりましたアダム・ジェラールです。 わたくしはフランスの東北部ロレーヌ地方にて、敬虔なカトリックで腕の良い大工の父「ヘンリ」と、おもてなし上手で心広い母「マリア」の間に生まれました。 ロレーヌ地方の気候と自然は北海道に似ていて、冬は長くて寒いです。山と川の間に幅広い野原が広がっています。仏独国境地帯であり、長い間受難の地となりました。 わたくしは中学高校を聖ヨセフという学校にて過ごし、そこで「木の十字架」という青年合唱団に入ることが出来ました。そこから一時歌手になる夢を追ったこともあり、また社会人として1年ほど働いたこともありました。そして二人の素晴らしい宣教師との出会いを経て、ようやく自分の本当の夢をみつけることができました。 その夢とは「パリ外国宣教会(MEP)」、360年前からアジアの地に「イエス・キリストの良い知らせ」を伝え続けているMEPで働く、ということでした。幼児洗礼であったわたくしは、20歳にしてMEPに入ることで自らイエス・キリストに再び出会ったのです。 タヒチ島で徴兵の義務に服した後、助祭となってラオスに派遣されましたが、ベトナム戦争後に日本に転任となりました。 それから41年が経ちました。浜松、静岡、焼津、沼津など静岡の小教区をめぐった後は、2009年からは横須賀の教会で働いておりました。どこの小教区を任されていてもわたしは、その小教区共同体が外へ向かって開かれていくよう、協力しながらそれぞれの活動を重ねて参りました。 最初の20数年は、「青年の家」を通じた有職青年の養成に関わりました。「見る、判断、実行」という、生活を見直す方法を通じて、社会の中で一人ひとりがキリストの目、心、手になるように共に歩みました。また90年代は、主に南米からの外国人労働者を支援する「ヘルスの会」を友人と共に立ち上げるなど、外国人の司牧にも力を入れてきました。前任地では、刑務所の教誨師として受刑者の相談・心のケアのための「聞く耳」となっておりました。 これから保土ヶ谷教会の皆様との交わりによって、一緒に何ができるかとても楽しみにしています。どうぞ宜しくお願いいたします。

Welcome to web site of Hodogaya Catholic Church!

Hodogaya Church is a parish in the Archdiocese of Yokohama. Our bishop is Bishop Umemura, our pastor is Adam Gérard.
The church was established on top of the hill of Hodogaya 70 years ago when the area was quiet farming land with long vistas of grape vines. Since that time, Hodogaya has developed quite a bit, the farming village has changed into a city filled up with houses and condominiums. However, just as it was 70 years ago, the church continues to be a serene praying place, which I believe is valuable for modern day people who want to feel at ease spiritually. The church is open to the public from AM7:00 to PM7:00. Everybody can freely come in and pray in the chapel. Pray for your peace of mind, pray for peace in your family and pray for peace in the society you belong to. We can just start praying “Prayer for Peace” which St.Franciscus Assis wrote for us 800 years ago. May the peace of the Lord be among us. God bless you.
Farther Adam Gérard, Hodogaya Catholic Church

 

Prayer of St.Francis of Assisi.
Lord make me an instrument of thy peace!
Where there is hatred,let me sow love;
Where there is injury,pardon;
Where there is discord,union;
Where there is doubt,faith;
Where there is delusion,truth;
Where there is despair,hope;
Where there is darkness,light,and;
Where there is sadness,joy.
O Divine Master,grant that I may not so much seek to be consoled as to console; to be understood,as to understand; to be loved as to love; for it is in giving that we receive, it is in pardoning that we are pardoned, and it is in dying that we are born for eternal Life.
Amen

2021年2月27日 | カテゴリー : ご挨拶 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

2021年四旬節・聖週間の予定

灰の水曜日:2/17(水)(大斎・小斎)ミサ10:00

黙想会:3/13(土)13:30

ゆるしの秘跡:2/21(日) 2/28(日) 3/14(日) 3/21(日) 各日曜日のミサ後
適宜、希望の方は神父様までお申し出てください。
電話での申し出も可能です。

聖週間・復活祭
3/28(日) 受難の主日(枝の主日) 10:00 枝の式・行列・ミサ
4/1(木)   聖木曜日  (主の晩餐) 19:00 ミサ・聖体安置式
4/2(金)  聖金曜日  (主の受難/大斎・小斎) 19:00 受難の祭儀
4/3(土)  聖土曜日  (復活徹夜祭) 19:00 光の祭儀・ミサ
4/4(日)  復活の主日 (復活祭) 10:00 ミサ・洗礼式

十字架の道行き:四旬節中の金曜日(2/21~4/2)
各々でお祈り下さい。

ミサとは

キリストが復活したのが日曜日だったので、初代教会では、信者たちは日曜日を「主日」とし、キリスト が「最後の晩餐」で定めた、彼の死と復活を記念する式に集まっていました。これがカトリック教会のミ サの起源です。 現在のミサは、起源を尊重しつつも、恵みをいただくだけでなく、参加する皆が一緒に捧げるミサとなっ ています。

  • 開祭 開祭の挨拶と罪の許しを願います。
  • み言葉の典礼 聖書朗読を聴き、神様の言葉をあじわいます。
  • 感謝の典礼 「最後の晩餐」にならった祈りを捧げます。
  • 交わりの儀 イエスに教えられた「主の祈り」を唱え、「平和の挨拶」の後に聖体拝領を行います。 洗礼を受けていない方は聖体拝領を受けることは出来ませんが、祝福を受けることは出来ます。
  • 派遣 (閉祭) ミサで受けた恵みを普段の生活で活かせるように派遣されます。

また、ミサはクリスマス(イエスの誕生を祝うミサ)をはじめ、イースター(イエスの復活を祝うミサ)など大 きなお祝いを伴うミサもあります。 ミサはだれでも参加することが出来ます。 解らない事があれば、気軽に声をかけて下さい。

2021年2月27日 | カテゴリー : ご挨拶 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

カトリック教会とは

イエス・キリストの教えと生き方、そして復活を信じる。これこそがカトリック教会の教えの根 源です。これはミサの中で唱えられる「使徒信条」にあらわさせています。

そのイエスの教えと生き方、復活が記されいる物が新約聖書です。新約聖書はイエスとの出会い、 この方を「キリスト(救い主)と信じた弟子たちや人々の喜びを記した、いわば信仰の証言葉のこ とで、人類の偉大な遺産として、いつの時代でも人々に生きる光と 力を与え続けて来ました。イ エス・キリストは、弟子の中から12人を選び「使徒」としました。そしてペトロに使徒の頭とし て特別な使命を委ねました。使徒たちは各地に宣教し、キリストを信じる者たちの共同体、すな わち教会をつくり、自分たちの後継者を定めました。ペトロはローマに行き、教会をつくりまし たこのペトロの後継者がローマ司教、すなわちローマ教皇です。そして使徒たちの後継者が世界 中で働いているのが司教なのです。この保土ケ谷カトリック教会も、その共同体のひとつなのです。

2021年2月27日 | カテゴリー : ご挨拶 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

壮年会

・ 私達保土ヶ谷教会壮年会は保土ヶ谷カトリック教会に所属する信徒、求道者、また、未信者でも参加出来る「壮年」の集まりです。

・ 壮年とは何を意味するのでしょう。辞書で「壮年」を引きますと「心身ともに成熟して働き盛りの年頃。また、その人」とあります。

・ しかしながら今の保土ヶ谷教会の壮年会は、会社を定年になった人が多く、ビジネスにおける働き盛りの人だけでなく、「神への働き」、「人への働き」、「社会への働き」における働き盛りの人も沢山いる会です。

・ 要は、私こそが「壮年」と思う老若男女全てが参加出来る会です。

・ 活動としては、奇数月、第2土曜日のミサ後(午後6時頃)例会として一献傾けつつ「霊的生活と実生活の一致」をテーマに分かち合いをしています。

・ また、分かち合いのみならず、教会行事への協力、飲み会、ゴルフコンペ等楽しいイベントも行っています。

・ 皆様、参加してみませんか。

2021年2月27日 | カテゴリー : | 投稿者 : HP編集者