四旬節第2主日(2月28日)の説教(テキスト)

ミサで読まれる福音と第一朗読(旧約聖書)はたいていマッチしています。

今日読まれたアブラハムの故事について、旧約聖書が単なる昔のお話としてではなく、現在につながるその意味を、理解してみたいと思います。

先週BSテレビでラッセル・クロウ主演の映画「ノア 約束の舟」が放映されました。旧約聖書に描かれているノアの箱舟の出来事についての現代的な解釈ですが、堕落した支配層と乱れた世の中にあって神がノアというしっかりした人を選び彼が被造物を選別して大洪水から彼らを救うという大筋は、旧約聖書のとおりでした。映画の中ではノアは自己中心的で頑固な権威主義者として描かれていましたが、これはこの映画独特の描写です。確かなことは、オリーブの枝をくわえた鳩が箱舟に舞い降りた時、それは彼らが助かったことであり、同時に神と人間の和解を象徴していることです。

神は人間に試練を与えますが、それは必ず人が再び立ち上がれるように助けてくださいます。

今日読まれた旧約聖書(創世記22-1~18)では、アブラハムが神より大事な一人息子を生贄に捧げるよう言われてしまいます。古代文明では、アステカやインカの文化でもあるように、人間を生贄にするというものがありました。アブラハムが生贄を捧げる直前にそれを止めましたが、これは私たちの神が私たちから何かが欲しい訳ではなく、私たちが自分の大事なものを他の人のために捧げる正義感を持って欲しいという希望を示しています。そして私たちが持っていると思っているものは必ず返すべきものであるので、自分だけの所有者としてふるまうのではなく分かち合うこと、自然環境を将来の子孫の代まで残すことを意味しています。

続いて読まれた福音書では、今も実際にあるタボル山という小さな山の山頂で、イエスが変容したことが語られています。

ペトロ、ヨハネ、ヤコブという3人の主要な弟子を伴ったイエスはこの山頂で、「白く輝き」はじめ、現れたエリアとモーセという、旧約聖書時代の預言者達と語り合い始めます。真っ白に輝くイエスは、神であるイエスの内面そのものを表し、イエスの十字架上の死と復活、神の勝利、神への信仰によって救われるなどのメッセージがそこには込められています。

この時、弟子たちにはまだその意味を完全には理解できてはいませんでしたが、光輝くイエスの姿を見て、イエスの内面を知りました。アブラハムも全てを捧げる直前まで行って、神の真実を知りました。

今、理不尽とも思えるコロナ禍に苦しむ私たちにとって、これらは何か示唆に富むものではないでしょうか。

アブラハムも3人の弟子たちも、最初は何もわかりませんでしたが、神に従った結果、より深く神の意図を理解できるようになったのです。

この四旬節の時期、よりよく私たちが何を神に願うのかよく考え、私たち同士の連帯を強め、神とつながりましょう。

 

2021年2月28日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

四旬節第1主日(2月21日)の説教(テキスト)

今日は四旬節の最初の主日です。

四旬節のはじめに読まれる聖書の箇所はほぼ決まっており、第一主日はイエスが宣教を始める前に、霊に導かれて荒れ野で40日間修行を行ったことが書かれています。この時イエスは神の代理としての使命を確認しています。イエスは何を確認したのか、それが私たちにどのような意味を持つのか。

マルコによる福音書では詳しくは書かれていませんが、ルカやマタイによる福音書に書かれた内容も踏まえて、考えてみたいと思います。

引き続き私は今、5~6世紀に中東の砂漠地帯に隠棲していた初期キリスト教の教父達の著作を読んでおりますが、その中で次のような考え方が目を引きました。それはイエスがサタンから挑まれた三つの誘惑とは、人間が構成されている次の三つの要素に対応するものである、というものです。

① 肉体:他の被造物同様、物理的に存続するために栄養が必要です。パン、つまりは肉体を満足させるものは必ず必要なものですが、人間は必要以上に蓄積する人と、飢える人に分かれてしまいます。すなわち「パンの誘惑」にさらされ、そこに人間の本音が現れます。人は、真に分かち合うことができるか、という命題を常に問われています。

② 魂:人は誰でも人生において成功したいと思い、それは必要なことです。しかし激しい競争の中で、他人を無視したり踏み台にするなどして、自分だけが良ければ良いという生き方では、成功した人生とは思えない気持ちでこの世を去ることになるのです。生まれながら恵まれている人は、人を支配するためではなく、お互いに支えあうことによって霊性を高め、成長することができます。

➂ 霊:肉体と魂だけではなく、人には我々と神をつなぐ何かがあります。この霊の導きによって、人は悪魔との戦いに負けず、より人間らしく生きることができるのです。

食べ物に乏しく自然環境の荒れ野には、また恐ろしい野獣も居ました。そのような中でも、イエスが飢え死にすることも、野獣に襲われることもなかったことは、神に従えば自然の厳しい変化や、けだもののような人からも私たちは害を受けず安全に生きていけることを示しています。3年前に教皇フランシスコが「Laudate Si ラウダテ・シー」という書簡を通じて、自然と人間、人間同士の生き方について、霊的な戦いを続けるよう励まして下さっています。

今日の聖書の後半(マルコ1-15)に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉があります。これは、イエスが今、生きておられる神の言葉として、「この厳しい状況に置かれている私たちが、他者と自然界との連帯を学び、非人間的な扱いを受けている人々と破壊されている世界を守り立て直すため、神のしもべとして生きるイエスの模範に従って生きましょう」ということを意味しています。

さて、「そう言われても、今は新型コロナのせいで、しばらくの間、何もかも分からなくなってしまった。自分のことすらも。」と思われている方も多いと思います。わたくしは、この危機の時こそ、救いの手を差し伸べられているイエス・キリストの手を握るチャンスと思います。神の言葉に触れ祈ることにより霊性を高めましょう。私たちにとって、この四旬節の務めは大きな恵みです。教皇フランシスコは「祈る、神様とつながる、ということは大きな力になりますので、積極的に参加して下さい」とおっしゃっています。

イタリアに「サン・エジディオ」という平和と共生を考える団体があります。そのリーダーであるエンゾビアンキ氏は、「霊的な活躍を支えてくれる神の言葉は、普通の書物の言葉と全く違います。神の言葉は、人間に贈られる「生きるためのメッセージ」です。神を知り、イエス・キリストと出会うことができます。神の言葉は、生きている命の言葉であり、それ無しにキリストの命を受け入れることはできません」と言っています。

このことを踏まえて、今年の四旬節を上手に過ごすために、二つの提案があります。

1.イエス・キリストの言葉を聴きましょう。

以下の方法で心の門をあけて、聖書を読んでみましょう。

―教会(聖堂の門を開ける:心を静かにし、聖霊の助けを求める。

―口の門を開ける:聖書のみ言葉を声に出して読む。

―沈黙の門:目で言葉を静かに読む。

―好奇心の門:気に入る、心に残る箇所に注目する。

―ハートの門:敏感に感じ入る点について瞑想する。

2.沈黙のうちに祈りましょう。

―神を感じるには、心を静かに受け入れる場所と準備が必要です。

―日常生活の忙しさ、雑音や不要な情報、便利な機械や装置からしばし逃れ、自分自身に戻れる「荒れ野」のような環境を準備しましょう。

―身近にある家族、友人、職場の仲間などを思い起こし、また訪れる春の自然を感じ、すべての源である神と向かい合いましょう。

2021年2月21日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

年間第6主日(2月14日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書(マルコ1-40~45)はイエスが重い皮膚病の患者を癒す情景を描いています。

現在パンデミックにより苦しむ私たちにとって、この聖書の箇所、イエスと病者の出会いは何を意味するものなのか、考えてみたいと思います。欧州起源のことわざで「木を見て森を見ない」というものがありますが、このイエスのたとえ話の細部にこだわることなく、その全体の意味を知り、このパンデミックによる様々な不便の中にあっても私たちが一歩ずつ進歩できるようになりたいと思います。

この重い皮膚病、つまりハンセン氏病については、横須賀三笠教会の浜崎神父が、国の隔離・差別政策に対する訴訟支援などを行っています。イエスの時代、ライ病と言われたこの病気への差別はさらに激しく、それは社会的なものにとどまらず、宗教的なものでもありました。レビ記13章によれば、このような病状を持つものは、何か罪を犯した「けがれた者」とされてしまい、神殿参拝はおろか普通に人と接することも禁じられていました。そして病が完治しその事実を神官が認めない限り、社会へ戻ることは許されませんでした。

現代の日本社会ではこのような病者への宗教的な差別はありませんが、法律の外側で、病者が世間的な差別や支援の乏しさに苦しんでいる状況が依然としてあります。ですので、私たちは学ばなければなりません。

このたとえ話のポイントは、まず病者は自ら勇気をもってイエスに近づき、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったことです。宗教的・道徳的に汚れた状態にあっても、それから逃れたいと思う強い心を持っていたことに注目しましょう。そしてイエスは病者を「深く憐れんで」(ギリシア語では、はらわたがちぎれるほど強く心が痛んで)、手を差し伸べて病者に触れました。この病者と会うことはもちろん触ることもタブーだったのですが、よきサマリア人のたとえ話と同じように、それを簡単に乗り越えていったのです。

以前の説教で、キリスト者は言葉と行いが一致しなければならない、ということをお話ししましたが、ここでもイエスは言葉だけでなく、実際に触れるという行為をし、その結果病者は快癒しました。その前提として、病者自らが最初にタブーを破り、イエスに勇気をもって近づいて行ったことがあります。

このことから私たちは学ぶことは多いと思います。わたくしは、三点あると思います。

― 私たちは今ソーシャルディスタンスを図らざるを得ない状況に苦しんでいます。その中で少しでも人間らしく生きるようにするためには何をしたら良いか。コミュニケーションを減らしたり断ったりするのではなく、コロナをチャンスとしていままであった心の壁を取り除き、ソーシャルディスタンスを保ちつつ工夫して交流を深めるといったことが望まれるのです。

― また、私たちは福音に出てきた病者のような勇気を持っているでしょうか。社会参加をあきらめ、怒ったり悲しんだりしているだけではなく、勇気をもって社会の動きに関心を持ち続けましょう。

― 最後に、今一度キリストとのかかわりを見直してみましょう。祈りと聖書を読むことによりイエスと出会い、人を大切にすること、お互いに尊敬しあうことの大切さを今一度思い起こしましょう。そして今回のコロナ禍の中での試練を、ライ病病者とイエスの出会いのシーンをイメージしながら、この試練を乗り越え私たち自身がかえって強くなれるようにいたしましょう。

2021年2月14日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者

年間第5主日(2月7日)の説教(テキスト)

もうすぐ四旬節がはじまり、そして復活祭という季節です。コロナにより昨年出来なかったことが、今年はできるでしょうか。

長い試練が、私たちをはじめ世界中の人たちに課せられています。

今日は、第一朗読で読まれた、神から与えられた試練に苦しみ抜いた義人ヨブを見て、人間と神のかかわり方を見てみましょう。ヨブ記に書かれていることは、パンデミックによって、何も悪いことをしていないのに、多くの人が苦しむ、現在の私たちと似ているところがあるからです。

ヨブ記そのものは、創作された作り話であることをご存じの方も多いと思います。ヨブという人物は存在しませんでした。しかし、人類にとってはヨブ記が書かれた3,000年前も、今も悪との戦いは、変わらない大きな課題です。

ヨブは、神を敬虔に敬う非の打ちどころのない高潔な人物で、社会的にも家族にも恵まれ、多くの人に尊敬されていました。その彼が、彼自身何も落ち度が無いのにもかかわらず、大きな不幸に見舞われます。財産も家族も失い、不治の病に倒れ、友人すらも去ってしまいます。神が不正義をするはずが無いので、このような大きな不幸に遭うのは、ヨブが何か誰も知らないところで大きな罪を犯したのではないかと友人に疑われ、妻にまで神を呪って死ぬ方がましと言われるのです。

ヨブは神に反抗する代わりに、「なぜ、罪のないものが、いつまでも苦しまなければならないのか」と問い続けます。ヨブ記では、神に向かって、問いかけを続けるヨブの姿が描かれています。

「神はなぜ答えてくれないのですか」

「神は耳が遠いのでしょうか」

「神は、不正を喜ぶ者なのでしょうか」

ヨブは自分が無罪であることを訴え続け、考え続けながら、ようやく次の3点に気が付くのです。

1 神は悪の原因でも、解決でもありません。

神自身も悪に苦しめられ、悪との戦いに力を入れるのです。ヨブも悪との戦いに神が擁護してくれることに気づきます。

2 神と対話を続けながら、神がすべてを無償で与えてくれることに、気が付きます。

3 全能といわれている神が、実に弱いものです。創造された世界は完璧なものではなく、完成するよう人間にお任せになりました。人間にも自由を与え、決断できるよう育ててきました。

神は一体何をお望みになるのでしょうか。それは、世界が法と正義の支配下にあるように望まれておられます。しかしそれは神が造られた世界の法則です。

ヨブはこれらに気がついたことにより、再び神に希望をおきます。そして葛藤を乗り越えて、愛する神を再び信頼するようになり、幸せを取り戻す、という内容です。

さて、ヨブとイエスの運命の間に大きな共通点があります。正しい人であるイエスが疑わられたり、排除されたり、最後には死刑を宣告される、といったような点です。イエスもゲッセマネの園で、苦しまれながら、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14-32)」とあるように、苦しみながらおん父を信頼し続けるよう努力しています。

フランスの作家であり駐日大使でもあった(1921-1927)ポール・クローデルは、「イエス・キリストは苦しみをなくすためではなく、私たちと共に苦しむためにこの世に来ました」と言っています。

私たちも世界中で苦しめられている人々と共に生き、悪と戦い、神に信頼を置きましょう。

2021年2月7日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第4主日(1月31日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書は、先週に引き続き、イエスがガリラヤ湖畔で弟子にした四人を連れて布教活動を始めた時の物語です。

まず気づくことは、イエスは大衆の中によく入りこんで教えを説き、人々もまたそれを熱狂的に受け入れたということです。ユダヤ人が土曜日に集まっていた公会堂、湖畔、あるいは山の上など、さまざまな場所でイエスは教えを説き、多くの人々の心を掴みました。このようなことの背景には何があったのか、皆様と一緒に見てみたいと思います。

この時期に行われたイエスの説教は、人々の心を奪い魅了するものであったと言われていますが、実際の内容については伝えられていません。

マルコはイエスの直接の弟子ではありませんでしたが、イエスの死後ペトロとパウロから聞き取ったものを、イエスの死後30年ほどでまとめました。一昨年皆さんと共に読んだルカによる福音書は、医師ルカの細かな記述が目立ち、昨年読まれたマタイによる福音書は、おしゃべり好きなマタイによる生き生きとした情景が印象的でした。では四大福音書のなかで最も短いマルコによる福音書は、何が特徴でしょうか。マルコは、イエスの死後30年の間、残された弟子と信者たちが鮮明に覚えていたイエスの記憶を聞き取り、その中から大事なものを選りすぐって書きました。

このマルコ22節では、「その時人々はイエスの教えを聞き、権威ある新しい教えだ、と驚いた」と書かれています。この権威とはどのようなものでしょうか。

権威のイメージとしては、仏教の大きな仏像が思い浮かびます。仏像には表情やポーズについて一定の決まりがあり、それに基づいて仏像が製作されています。それではイエスのイメージとはどのようなものでしょうか。イエスの顔については何も伝えられていませんので分かりませんが、

私の個人的なイメージでは、右手には経典(聖書)を持ち、左手は人々に向かって手を掲げている、というものです。この左手は指先は天に向かって天の父と私たちの間を結ぶ、そして手のひらは私たちに向かって私たちに働きかけています。今日読まれたマルコによる福音書の箇所も、まず人々に聖書の話をした後に、実際の行動として悪霊を追い払うという、二つの行いがなされました。

この聖書の言葉だけではなく、行いが必ずついてくるというところが、イエスご自身およびその後弟子たちが伝えていくキリストの教えの中核にあります。

イエスは自分の言いたいことを伝えるのではなく、相手がイエスの考えを理解し、自分自身でその考え・行動を改めることを望んでおられました。そのために、聖書はしっかりと右手に持ちつつ、左手では神とつながって人々に作用する、ということをなさいました。一方、律法学者達は、経典(旧約聖書)をふりかざすが、神とも人々ともつながっていない、自分たちの権力のために神の権威を用いていると、イエスは非難されたのです。

イエスにとって、神の言葉や聖書とは、人々を救うための大事な道具でしたが、目的ではありませんでした。人々を救い、真の人間らしい生き方を送らせるためのものでした。そのようなイエスの目からは、神の言葉を用いて自分自身を飾り、庶民を見下し関わろうとしなかった律法学者は、否定されるべきものだったのです。

弱い者を非難したり支配するのではなく、再び自分で立ち上がれるように励ましたり助けたりする、少なくとも関わろうとする、このようなイエスの姿を今日の福音は描いています。

悪霊は「かまわないでくれ、正体はわかっている、神の聖者だ」、つまりイエスが聖者であることは認めるので、他の律法学者同様、その男に関わらないよう叫びました。それに対しイエスは悪霊を叱り、言葉だけではなく、実際に不思議な力の行為として悪霊を手で追い払われたのです。

よく聖書に出てくるイエスによる「癒し」、言葉としてはよく目にしますが、このように言葉だけでなく必ず深い関わりと行為が伴ったもの、と理解すると少しずつ実態が見えてきます。

これをさらに理解するために、最近コロナ禍で得た時間を用いて、ローマ帝国崩壊後の5~7世紀のキリスト教の古典を読んでいます。この時代、多くの教父たちは荒れ野や洞窟に隠遁し、イエスの教えを学び解釈しようとしていました。

その中で、この「イエスによる悪霊の除霊」につながる興味深い解釈の一つに、例えで言うと、「人間とは、(ハンバーガーのように)パンにはさまれた肉のようなもの」というものがありました。ハンバーグが人間自身の魂、下側のパンが人間の肉体、上側のパンが霊、つまり肉体と霊により魂が包み込まれた状態、という解釈でありました。この霊の部分は欲望に負けて悪霊につけこまれたりする一方、信仰により神と繋がったりすることができるものです。下のパンは物理的・肉体的に自分以外の人々や社会とコミュニケーションをとる一方、上のパンでは深い気持ちや感情のやり取りを行うもの、この双方が自分の魂に影響するという考えです。

このように考えると、悪霊に取りつかれた、すなわち絶望と不信により深い気持ちや感情のやり取りができなくなった人々であっても、それはイエスからの右手と左手の力によって癒されるということを示しています。

私たちも、この話から何かを汲み取り、日々の生活への希望と指針にできればと思います。

2021年1月31日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第3主日(1月24日)の説教(テキスト)

おはようございます。

今日は『悔い改めて福音を信じる』という、イエスの招きに応えて人生を歩むうえで、信じるというだけでなく自らを改めていくということについて考えたいと思います。

第一朗読(ヨナ3-1~10)では、ヨナとニネベの都の人々について語られました。神にも人にも愛されていたヨナは頑固な性格な人でもありました。そのヨナが、金儲けと戦争の話ばかりをする敵国ニネベの都へ、人々に悔い改めよと伝えるように、神から召し出されました。その役割を嫌がったヨナは、反対方向へ逃走しようと船に乗りますが、その船は大嵐に巻き込まれます。これは神の祟りと恐れた船乗り達はヨナを海中に放り込んでしまいますが、ヨナは大魚に飲み込まれ、三日三晩を過ごしたのちに吐き出され、海岸に打ち上げられます(このヨナの冒険談は、日曜学校で子供たちのほうがよく知っていることでしょう。)

このヨナ書のポイントは、ヨナが自分の過ちを認め勇気をもって敵国ニネベに乗り込んでいったこと、そして意外にもニネベの人々が自分たちの過ちに気づき、悔い改めて償いを行ったこと、そしてそれによりニネベは神から許されてしまうことです。 死を覚悟して「このままでは40日後にこの都は滅ぼされる、皆罰をうける」と叫んでいたヨナは、罪深い人たちがあっさり許されてしまったことに納得がいきません。

しかし今日読まれた詩編25章にあるように、「神はあわれみ深く正義に道、罪びとに道を示される。神は貧しい人を正義に導き、へりくだる人にその道を教えられる。神を恐れるひとに神は心を開き、契約を示し、諭される」のです。 非ユダヤのアッシリア人、「罪深い」異邦人のニネベの人々が、素直に悔い改め神からの許しを得たのに対し、正しい信仰を持っているはずのヨナの方が神の愛を理解できず、異邦人への偏見を捨てきれず、その後も神との関係に苦労するという、含蓄のある教えです。

今日読まれた福音書(マルコ1-14)を見てみましょう。 洗礼者ヨハネが逮捕されてから、イエスは「神の良い知らせ」を伝えるために、北イスラエルのガリラヤに向かいました。ガリラヤはその地方の十字路と呼ばれ、ユダヤ人以外に多様な民族が住んでいました。そのことよりエルサレムの民衆よりも、神の愛の計画に参加するために、積極的にイエスを受け入れる予想があったのです。

その途中ゲネザレ湖畔で、弟子(協力者)を探し求めているイエスと、彼の後をついていこう決意する弟子たちの姿が今日の福音で語られます。彼らの求める幸せとは何であったか、を考えます。 神の子であるイエスは、どんな魅力をもって、すでに土地に根付き、家族と伝統を愛し大切にしていた人々に、それらを捨ててついてくるように呼び掛けたのでしょうか。またイエスの後について行く漁師たちには、どのようなモチベーションが働いていたのでしょうか。

イエスの「私についてきなさい、魚ではなく、人間をとる漁師にしよう」という言葉の中に、今まで果たせなかった夢を弟子たちが見つけたのかもしれません。そしてイエスのまなざしと言葉から出てくる影響力によって、その夢を追い求める勇気が与えられたのだと思います。イエスとの出会いとその影響力により、強い改心・回心が行われたのです。ゲネザレ湖畔の漁師達が探し求めていた道が、イエスの一言で開かれてしまいました。

この大きな転換の裏には、キリストの後へついて行けば、今までの人生で大切にしてきたものよりも大きなものがあり、それはどんなことがあってもなくならないもの、永遠に残るものであると気がついたことがあります。

さて、灰の水曜日、四旬節が始まるまであと三週間となりました。 四旬節の儀式は、今日考えさせられた言葉で始まるものでもあります。 「悔い改めよう(改心して)、天の国は近づいて(福音を信じなさい)」。

この「悔い改め」(ギリシア語:メタノイア)とは、単なる内面的な性質の変化ではなく、人生の完全な転向を意味します。神の助けを要する一方で、人の側もまた倫理的にふるまうことを求められるほどに、大きな方向転換という意味です。今までの努力が無駄であったということではなく、改めて、我々はもっと人間になろうではないか、という挑戦です。

2021年1月24日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

年間第2主日(1月17日)の説教

今日のミサで読まれたサムエル記と、ヨハネによる福音書には、共通するテーマがあります。

それは「主の召し出しと信仰する人」の物語です。

サムエルがいた紀元前11世紀ごろ、ユダヤ人と神と交わされた契約が入った「契約の箱」はエルサレムの北、シロという神殿に安置されていました。

見習いの若い神官サムエルは、エリという祭司のもとで修業していました。ある夜、エリが休んでいたころ、サムエルは「契約の箱」の傍で寝ていました。そして3回ほど、神に呼ばれるのです。

「サムエル、サムエル」と。

1回目と2回目は、祭司エリに呼ばれているとサムエルは思いました。しかし3回目には、先輩のエリが、サムエルを呼んでいるのは神であるということに気づきました。そしてサムエルに、呼んでくれる神にしっかり答えるように、すなわち「主よお話しください、私は聞いております」と言いなさいと、アドバイスしたのです。

未経験であったサムエルは、聞いた声は神のものだったと知り驚きましたが、ベテランのエリの助けを得て自信を持ちます。そしてその時より、神に呼ばれたらその声(神)に従って預言者の道を歩む決心をしたのです。

さて、私たちが祈るときには、どのようにしたら良いのでしょうか。私たちは、自分自身のことについてよく迷っていますので、それらについて願い事や、感謝だけをすれば良いのでしょうか。

若いサムエルは自分の名前が呼ばれたときに、エリの助けによって、「主よお話ください。私は聞いています。」と答えました。

イスラエルでは、聞くという言葉は、「シェーマ」という動詞を使います。「シェーマ」とは人の話を聞いて従う、という意味があります。「シェーマ、イスラエル」という申命記の有名な箇所があります。律法の基本になるモーゼの十戒が申命記の5章に見られます。これはヘブライ人の信仰告白になります。

サムエルのように、ヘブライ人の子供は小さい時から神に向かって祈ることを覚えさせられます。そして、人間になろうという成長の段階で、将来その身につけた体験が芽生えて一人一人の信仰の誕生を迎えることができます。信仰とは、神から与えられる贈り物ですので、名前が呼ばれたら、神に選ばれているという印になります。

自分の内面で奥深く探し求めているものがそこにはありますし、その一方、私たちが知らない、神がわたしたちのために考えているものもあります。両方がぴったり合えば、生きる道が開かれます。生きる使命になります。

ヨハネの箇所には、弟子たちの召し出しが行われます。洗礼者ヨハネが自分の弟子たちにイエスを紹介します。当時弟子たちとって、「神の子羊」の名は、救い主であるイエスと出会えば、将来自分たちの歩む道が必ず開かれる、という大きいな希望でした。

信じる者になることは、「知識人になる」「真理をもとめている」ことだけではなく、歩むべき道を探し求めてゆくという厳しいことになります。

イエスの呼びかけは、そういう形で、「何を求めているのか?」と意識的に質問の形をとっています。自分だけでは見つけられていない不足しているものを、希望をもって、他者との出会いによって見つけて行くのです。

啐啄同時(そったくどうじ)という日本語がありますが、鳥の雛が卵から産まれ出ようと殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをすることをいうそうです。弟子を選んだキリストが、ついておいでと声をかけて、弟子を召し出された時というのは、雛鳥が殻を割って、親鳥と生まれて初めて親と触れ合う時です。まさに 啐啄同時です。

同じように、私たちが祈る時も、自分のおしゃべりや願いだけでなく、神からの希望・メッセージを聞き取ろうとする努力があって、神の存在を実感できるのです。そして、本当の自分に出会え、人間としての成長ができるのです。

2021年1月17日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

主の洗礼(1月10日)の説教(テキスト)

数日前にコロナ禍について「緊急事態宣言」という残念なニュースが届きました。しかしその一方、今日教会の典礼によって、良い知らせもあります。

今日は、成人となる若い兄弟とともに、イエス・キリストの洗礼を記念するミサを捧げます。

さて、イエス・キリストの洗礼を祝うとき、私たちは神様からいただいた次の三つの良い知らせを確認します。

1.去年のクリスマスの夜の知らせ

―神の子イエスが、天からこの地まできてくださり、無防備な赤ん坊の姿で現れました。

―神はこの世に住んでいる私たちと、共に歩むように決心されたのです。

―神を遠く離れた存在だと思い込んでいた私たちは、神をすぐそばにいる方として体験できるようになりました。

2.先週いただいた知らせ

―主の公現がありました。

―キリストがユダヤ人だけではなく、この世の全ての人々の救いと解放のために来られたことが明らかにされたのです。

3.そして今日の知らせ

―天上からいらしたキリストが、私たちの足下まで降りてくださり、洗礼を受けるためにヨルダン川の中に沈んでいったのです。

これはどのような意味を持つのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、原点に戻り神の前で悔い改めるために、人々に洗礼を授けていました。洗礼は英語ではバプタイズと言いますが、語源は沈む、浸すといったものです。イエスも洗礼者ヨハネの前で、ヨルダン川の中に沈み込みました。そして水の中にあってしばらく出ては来ませんでした。本当のところは、キリストは神ご自身であり洗礼を受ける必要はありませんでした。にも拘わらず、神ご自身が洗礼を受けたこと、すなわち人々と同じように呼吸が苦しくなるまで水の中につかっていたことは、私たちを助けるために、人と共に霊に生きるために、神がこの世に来た印(しるし)を意味します。

こんにち洗礼を受ける時には、額にわずかな水が注がれるだけですが、その時「父と子と聖霊によって洗礼を授けます」という言葉が述べられます。イエスがヨルダン川から出て岸へ上がった時も、天の父から「彼は私の愛する子、私の心にかなう者」との声がありました。洗礼を受ける私たちは「父と子と聖霊によって」神の心の深い交わりにより結ばれます。そしてこれは人間同士も仲良く交わるよう、神から招かれているのです。

初代教会の学者テルトゥリアヌスは「洗礼を受けたものはキリストの印が心に刻まれた者」と言っています。それは神に守られる一方、兄弟と共に生きるという責任を負うことでもあります。責任、英語でいうリスポンシビリティはリスポンス(答える)から来ています。私たちは神から与えられる問いに答えなければなりません。

現実の世界の中に生きる私たちは、大事な選択を行わなければなりません。それは富・権力・名誉のために他者を敵とする個人主義、利己主義が世の常識であるのに対し、キリストの生き方は小さくされた人々の側に立って彼らを優先し、人々と共に自分の十字架を背負って、解放の日(永遠の命)を目指すものであるからです。現代社会が今一番必要としていることは、バラバラに分裂した人々が、お互いが助け合い、連帯しあえるようになることです。一人ひとりを大切に思う心を育てるのは難しく、挑戦です。信仰は強制されるものではなく、神から与えられる贈り物です。

イエス・キリストに向かって祈ります。イエス様、あなたはヨルダン川から立ち上がった時、「天から神の霊が鳩のように下り」そして「『彼は私の愛する子』と父の声が聞こえる」ようになりました。成人を迎える私たちひとりひとり、そして今日のミサ参加者に豊かな祝福を送ってください。この世界の家の創造主である父と私たちと共に歩んでくれるキリストの平和、愛の交わり、正義の霊が私たちの心に豊かに注がれますように。

2021年1月10日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

主の公現(1月3日)の説教(テキスト)

人生の道を歩んでいく中で、目標を失うことはとても辛いことです。

昨年はそのような経験があったという気がします。朝早くおきること、一日の準備をすること、家から出て出発することなどが、難しくなってしまいました。 先のことが見えなくなってしまったので、不安を覚えるようになりました。

今日、マタイ福音書に紹介されている占星術の学者たちは、どのような人たちだったのでしょうか。

-彼らは間違いなく、出発する勇気がありました。

-彼らは開かれた心と、明確な真理を求める探求心がありました。

それでは、彼らは何を追求していたのでしょうか。彼らは、満足できなくなった日常生活からしばらく離れて、生きる意味を再び探し求めていたのです。命をかけるほど、新しい目標を求めていたのです。

「私たちは、東方の国でそのかたの星を見たので、拝みに来ました。」

長い間、星空の研究をしてきたおかげで、かれらはエルサレムまで来ることができました。そしてエルサレムに来ると星が止まり、星の導きが終わったことに驚きました。星空を追求する旅が終わり、科学的手段の限界を受け止めて、高いところから低い地上を捜索する作業に変わったのです。そして、ついに、飼い葉桶に寝かせてある赤ん坊を発見したのです。

占星術者たちの物語は、それぞれの思想、宗教を超えて、神を求めている人たちの物語です。地上の日常生活から離れたい、苦しみ悩みから解放してくれる天に向かいたい、と思うことはあると思います。しかし、インターネットを検索しても、マスメディアに現れる様々な言説に従っても、何も見つかりません。イエス・キリストの神は私たちの上に立つ存在ではなく、目の前に麦わらの上に寝かされている、マリアの赤ちゃんの中におられます。

神は、ヘロデ大王のような支配者、残酷な独裁者ではなく、私たちと同じ高さで目線を合わせてくれる、謙遜で弱い者の姿、存在になります。

占星術者たちはいったんは、エルサレムの大神殿に到着し、ヘロデ大王の王宮にも訪問しましたが、そこにはイエスはおらず、田舎の小さな村であるベトレヘムまで歩かなければなりませんでした。

2000年経った今でも、多くの人たちは真理を追求しようとして、いまだに残念ながら間違った方法をとっています。大神殿や王宮にいくことも、良いでしょう。しかし、本当の神はそのようなところにはおらず、貧しい馬小屋におられるのです。

馬小屋に到着した占星術者たちは、幼いイエスに東方から持ち込んだ供物をささげます。ゼニ・カネの欲望そのものである黄金、人を魅惑し支配する力の象徴である乳香、不老不死の肉体へのこだわりの象徴である没薬をイエスにささげ、それらへの執着から解放されたのです。

馬小屋でうまれた赤ん坊は死ぬために人間になったわけではありません。生きるために、また彼を信じる人が真に生きるために、人間になったのです。イエスと出会った占星術者たちは、「ヘロデを避けて、生きる幸せの鍵を手にとって、自分たちの国に帰っていった」のです。

新年には人生の新しい1ページが開きます。何も書いていない真っ白なページです。これからの一年間、占星術者のような心で、イエス様と私たちの兄弟姉妹を探しましょう。そしてイエス・キリストを心に宿し生きていけるように、新しい出発をいたしましょう。

2021年1月3日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者

聖家族(12月27日)の説教(テキスト)

皆さん、ご存じのように24日のクリスマスから3日の主の公現の祝日まで、教会の典礼はイエス様の降誕について黙想するようになっています。今日はその中でもイエス様とその家族、聖家族についてです。聖書の中の聖家族は、あまりにも美化されている気がいたします。私たちは、イエス様とその両親が、本当のところどのような家族であったか、見ていきたいと思います。

どの国、どの時代でも、家族は社会の最小単位の核です。社会が痛むときには、その最小単位である家族に最初にしわ寄せがいき、家族が苦しむことになります。

ナザレにあったイエス様の家庭もそうでした。

マリアはすべてのことを心に留めていたと、言われていますが、何を心配していたのでしょうか。今日読まれたルカ福音書の中では、幼子イエスを抱いたマリアは神殿でシメオンと出会い、イエスの活動と受難、そして「心を剣で刺される」と表現されたマリア自身の苦しみを予言されています。マリアも家庭生活においては私たち以上に、悩み苦しみがあったことは想像に難くありません。

一方、父ヨゼフはイエス様の父親でしたが、マリアはヨゼフを知る前に妊娠したので、実際には養父というものでしょう。ヨゼフは神の御子誕生とその名をイエスと名付けるようにとの天啓を受け、それを信じ従います。この従順さは、創世記に描かれている蛇に騙されて神を欺くエヴァと好対照を成しています。ヨゼフは神を信じその保護を受けます。一方エヴァはその保護から離れた結果、価値観が分裂・崩壊し自分が誰だかわからなくなってしまいました。

先ほど申しましたように、戦争をはじめ社会が分裂し厳しい状況に陥ると、それは家族にしわ寄せがいき、家族の間にも分裂や不和が生じます。アダムとエヴァが楽園を追われた後、カインが弟アベルを殺してしまうのは家庭内不和の極端な例です。また今日の第一朗読で触れられたように、アブラハムとその妻サラが長く不妊に苦しむなど、家庭内の問題は昔も今も変わりありません。しかしアブラハムが、折角生まれたイサクを神に試されて、供物に捧げかけたように、私たちの信徒の先達は家庭内の問題に直面した時には、神に従うことでその問題から切り抜けてきました。

家庭内虐待が社会問題となって久しくなります。忙しくて面倒を見ることができないのか、そもそも子供を愛することができないのか、子供が放置されたり虐待されることが報道されています。家庭内の雰囲気はとても大切なものです。父親・母親・兄弟に愛されて育ったという感覚を持つ人は、家庭が心を癒す場所であるということをわかっているので、家庭内で困難に直面してもそれに立ち向かうことができるのでしょう。「他者と共に生きる」というのは、実は社会だけでなく家庭内においても、難しいものなのです。家庭内では各人がそれぞれの仕事をしているだけではなく、お互いの顔を見て、今どのような気持ちでいるのか察しあうことが大切です。この雰囲気があってはじめて、何かを生み出す家庭、たとえそれが潰れても立て直すことができる家庭、になるのだと思います。

今までカトリック教会は、結婚は神の秘跡として、厳しい見方をとってきました。愛の掟を貫くということですが、それは十字架が縦板と横板から成っているように、神から人への愛(縦方向)と人間同士の愛(横方向)を愛の交わりとして固く繋げるということです。家庭生活のなかでは色々な出来事が生じます。アクシデントや不幸と思われることが起きても、神への信仰と教会の人々との交わりの中でそれを受け止め、人間としてのバランスをとれるようになるのです。家族同士の信頼が時として損なわれ危機に陥ることもあります。このような時、神を忘れ、罪を犯したダビデが悔悟ののちに神から許されたことを思い起こしてみましょう。信頼を忘れて自己中心に陥り、好ましくないことをしても、ダビデは神から捨てられませんでした。それはダビデが深く反省し償う心があったことと、そのようなことを超える「絆」が神とダビデの間にあったことを意味します。

このように家庭生活に関連する箇所は聖書にはこのほかにも多くあり、私たちの家庭生活や人間関係を見直す時には、聖書をひもといてみましょう。このとき次の三点に気をつけると良いと思います。

・聴くこと:神様のみ言葉に従う、聖書のメッセージに耳を傾ける、各家族メンバーの声を聴くこと。

・生命を大切にすること:子供は自分のものではなく神から預けられたもの、共に成長していく雰囲気づくり。

・協力すること:マリッジエンカウンターなど、夫婦や家族の問題を話しあう相手や場を見つけること。

最後に、自分自身だけでなく、困っている家族、苦しんでいる家族への関心を私たちは持ち、家族同士、愛の交わりを深めることができることを神に祈りたいと思います。

2020年12月27日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : HP編集者