年間第6主日(2月14日)の説教(テキスト)

今日読まれたマルコによる福音書(マルコ1-40~45)はイエスが重い皮膚病の患者を癒す情景を描いています。

現在パンデミックにより苦しむ私たちにとって、この聖書の箇所、イエスと病者の出会いは何を意味するものなのか、考えてみたいと思います。欧州起源のことわざで「木を見て森を見ない」というものがありますが、このイエスのたとえ話の細部にこだわることなく、その全体の意味を知り、このパンデミックによる様々な不便の中にあっても私たちが一歩ずつ進歩できるようになりたいと思います。

この重い皮膚病、つまりハンセン氏病については、横須賀三笠教会の浜崎神父が、国の隔離・差別政策に対する訴訟支援などを行っています。イエスの時代、ライ病と言われたこの病気への差別はさらに激しく、それは社会的なものにとどまらず、宗教的なものでもありました。レビ記13章によれば、このような病状を持つものは、何か罪を犯した「けがれた者」とされてしまい、神殿参拝はおろか普通に人と接することも禁じられていました。そして病が完治しその事実を神官が認めない限り、社会へ戻ることは許されませんでした。

現代の日本社会ではこのような病者への宗教的な差別はありませんが、法律の外側で、病者が世間的な差別や支援の乏しさに苦しんでいる状況が依然としてあります。ですので、私たちは学ばなければなりません。

このたとえ話のポイントは、まず病者は自ら勇気をもってイエスに近づき、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったことです。宗教的・道徳的に汚れた状態にあっても、それから逃れたいと思う強い心を持っていたことに注目しましょう。そしてイエスは病者を「深く憐れんで」(ギリシア語では、はらわたがちぎれるほど強く心が痛んで)、手を差し伸べて病者に触れました。この病者と会うことはもちろん触ることもタブーだったのですが、よきサマリア人のたとえ話と同じように、それを簡単に乗り越えていったのです。

以前の説教で、キリスト者は言葉と行いが一致しなければならない、ということをお話ししましたが、ここでもイエスは言葉だけでなく、実際に触れるという行為をし、その結果病者は快癒しました。その前提として、病者自らが最初にタブーを破り、イエスに勇気をもって近づいて行ったことがあります。

このことから私たちは学ぶことは多いと思います。わたくしは、三点あると思います。

― 私たちは今ソーシャルディスタンスを図らざるを得ない状況に苦しんでいます。その中で少しでも人間らしく生きるようにするためには何をしたら良いか。コミュニケーションを減らしたり断ったりするのではなく、コロナをチャンスとしていままであった心の壁を取り除き、ソーシャルディスタンスを保ちつつ工夫して交流を深めるといったことが望まれるのです。

― また、私たちは福音に出てきた病者のような勇気を持っているでしょうか。社会参加をあきらめ、怒ったり悲しんだりしているだけではなく、勇気をもって社会の動きに関心を持ち続けましょう。

― 最後に、今一度キリストとのかかわりを見直してみましょう。祈りと聖書を読むことによりイエスと出会い、人を大切にすること、お互いに尊敬しあうことの大切さを今一度思い起こしましょう。そして今回のコロナ禍の中での試練を、ライ病病者とイエスの出会いのシーンをイメージしながら、この試練を乗り越え私たち自身がかえって強くなれるようにいたしましょう。

2021年2月14日 | カテゴリー : 説教 | 投稿者 : 保土ケ谷カトリック教会HP管理者